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2019/07/29

想い、分かち合うこと。

「イヤなものはイヤだし、おかしいことはおかしい!」
「これ以上恥ずかしいことを重ねたくない!」
そう表明していかないと、魂まで侵食されていきそうに感じるときがある。だから書く。諦めずに求めて続けて生きていきたいから、想いを書き出す。そして、誰も見てくれないかもしれなくても、読んでもらえるかもしれない場所に出す。
自分の感性や心に抱く違和感や抑圧を表現し、その先にある真に望む世界を確認し、誰かと共有したい。
だれかと分かち合いたいという欲求があるから私は書けるし、それによって自分自身で確認/発見するものもある。自分ではない誰かや、未来の自分に繋がるために、稚拙でも想いを書く。(母語の読み書きを習得できた境遇を与えられた者として、感謝しつつ。)
 
 何ができるわけでなくても、「心は負けない」って思う。
「オレの心は負けてねぇから!」って言ってた宋神道(ソン・シンド)さんの映画を思い出す。宋さんは亡くなったけど、宋さんの闘いは人間の真の尊厳と勇気を教えてくれる。そういう感覚を取り戻させてくれる。人間の心の内にあるものが言葉となり、目の輝きになると聖書にも書いてあった。かけねのない本気は人にちゃんと伝わっていくんだなって、山本太郎さんを見ていても感じる。

 大人である自分が世界の未来を諦めてないことを示すことが大切だと、友人のブログを読んでいて改めて思った。子どもたちの成長に携わる仕事をしている彼女の想いは、遠く離れていても私を励ましてくれる。そう、大人である立場の人間が諦めてしまっては、次の世代がどうやって希望を持ちえるというのだろう。「最近の若い人は・・・」って簡単にぼやく前に、若い人が置かれている状況を誰が野放しにしてきたかを考えなきゃいけない。若い人たちのせいにして、自分の責任を棚上げにするのはかっこ悪い。自分たちのこれまでの力不足を認めて、今何ができるかを考えていくことがだいじと思う。もうとっくの昔に大人の立場になってしまった自分に諦めるという選択肢は許されない。

 しかし、そうは言っても、現実の悲惨さに挫けてしまって心身ともに動けなくなるときが多々ある。心身のしんどさに、生き抜くため考えることをストップするときもどうしてもある。私はそういう時はとにかく休んで、また力が湧いてくるのを待つ。もうダメだーと思うとき。でも、そういうときに私には近く遠くに誰かがいてくれて、ポツポツ話していくうちになんとかまた心が動き出す。その繰り返し。
 私は心を分け合うことで、諦めずにいる今をなんとかかんとか繋いでいるんだなぁと思う。自分の周りにいてくれる人と出逢えた幸運と、その人たちの存在に感謝する。一方で、そういうとき誰とも話せないままに絶望から身を起こせない人もいることを忘れないようにしなきゃならないなと思う。自暴自棄になり引き起こされた犯罪にも、権力の思惑通り優生思想に染まり引き起こされた殺人にも、犯人たちの誰とも歩めなかった混沌とした孤独があったのではなかったか。差別や暴力を肯定せずには生きられない人たちの、生き苦しい現実の暮らしと寄る辺ない絶望がある。
きっと、誰もがみんな誰かと心を分かち合いたいと願っている。 誰かを虐げるために共謀することではなく。
 
 心ある誰かの行動を知ったり、想いを読んだりっていうのは、生きていくための心の灯火を維持するためにとても大切ことだと思う。逆に言えば、自分の想いを表明することにも もしかしたら意味があるかもしれない。(まあ、他者に意味がなくても自分に意味があるから書いていくんだけど…。)
いつか、誰かその人にとって、今の私を周りで支えてくれる人のような働きが少しでもできる日がきたらと願う。

 人間は言葉以外にも、共感するための様々な方法を、すでにたくさん持っている。それを活かし、人間としての可能性や気持ちを互いに分かち合う歓びを確保しながら、生きる気力を回復していけると思う。そうした回路をもっと深化させていければ、絶望に打ちひしがれた人の心にも新しい風が吹き、希望を灯すことも、心を燃やせるようになることもできる日もきっと来るだろう。

 生活のなか、何か活動できるわけじゃなくても、感じる自分、想う自分を手放さないでいたい。想うことを「無意味だ」と思い込まそうとする勢力が確かにあるけれど、人の想いはその人のもの。唯一無二の存在である自分自身の根拠だ。

 人間を権力者の都合一色に塗るファシズムの闇に対抗する最大の武器は、真実に想う事なのだと思う。だからこそ想いを分かち合うことは、ただのおしゃべりに見えても、そこからこれ以上 友人や隣人、そして自分自身を奪わせないようにする主戦場でもある。