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2019/07/26

2019年7月26日 相模原障害者殺傷事件から3年の夜に

2018/07/26 障害者殺傷事件から2年の今日に
http://inariyasauce.blog71.fc2.com/blog-date-201807.html

 上記の記事は、昨年の今日に書いたものです。
相模原 障害者殺傷事件から3年の今日、美しい夕焼けを見ながら殺された19名の方のことを想っていました。

生きて、夕焼けをもう見ることができないあなたに
二度とおいしい食事をできないあなたに
愛しい人と笑みを交わすことが二度とできなあなたに
もう出逢うことができないあなたたちに
私は誓います。

あなたたちを無残な死に追いやった優生思想を断固拒否し
あなたたちの死を簡単に忘却してしまえる無意識な命の選別に抗い続けることを。


 あなたをあなたの家族や暮らしから引き剥がし どこかへ閉じ込めた社会の構造
家族のみが苦労を強いられず 重度の障害があったとしても一人ひとりがそれぞれの地域で暮らせることが可能であれば
「障害者」と「健常者」の線引きがここまで露骨で具体的な社会でなければ
このような事件も起きなかったのではなかろうかと思わずにはいられません。

 優生思想と排外主義の嵐の前に、関係性を意図的に絶たれ 日常でフツウには出逢うことが難しかった私たちのこれまでがありました。分断は今も絶え間なく続き 私たちはお互いに隔離され隠され 出会いを奪われ続けています。
そのうちに無知から生じる畏れが、より一層つめたい距離を生み出して、差別は空気のように社会に蔓延し強まっています。子どもの時に分けられず一緒にいられれば私たちは自然と友となれたかもしれないのに。人間は本来ならその存在ひとつ、笑みひとつで、生きている意味と歓びをお互いに分かち合えるはずのものなのに。

 想像もつかない恐怖のなか命を奪われた、名前も知らない19名のあなたたちへ。
慟哭の三年を生き抜いた生存者と御遺族の皆様にも心からの哀悼の祈りを捧げつつ
今日の夜を過ごしています。




雨宮処凛さんが殺人を犯した植松氏のことを書いたり話したりしている記事を読みました。
参考記事:
(1)第462回:植松被告がキレた理由 「日本の借金」を、なぜあれほど憂えるのか。の巻(雨宮処凛)
(2)この国の不寛容の果てにー相模原事件と私たちの時代(1)神戸金史×雨宮処凛

 「自分が生きている価値がない」という やり場のない孤独や淋しさに苛まれ苦しみを抱えた植松氏の心に、差別の思想は入り込み、 暴力を正当化し凶事を行い、世の悪にそれを肯定された彼は そこにとうとう自分の居場所を見つけてしまったんだと記事を読んで感じました。国債のことも、障害児の母親への心配も、どこか真面目である彼の側面を感じさせないではなくて。厳しい介護労働の現場での行き詰まりの中で、いのちを奪うほうの考えへ心を奪われ流れていってしまった根源的な理由はどこにあるのかを、記事を読み、改めて考えています。

 人と大切にしあえる関係性に恵まれていない人は、大切な人を失った人の悲しみが想像し辛いと思います。幸福を味わったことがない人に、誰かの奪われた幸福への慟哭は同情よりも羨望や嫉妬の感情を引き起こすかもしれません。
彼が「役に立たない」と思い込んだ人が生きていることに怒りを感じたのは、彼自身が「自分を愛せない」「自分は役に立たない」というような やり場の無い孤独と自己否定が根底にあったのではないかと私は感じます。彼がどんなにそう感じなくても生きていることを「認められている」人への憎しみの裏には、そうした葛藤を持たず命をひたすら味わい生きる人たち、家族や職員に生活を支えられている人たちへの嫉妬も含まれていたのかもしれません。
「役に立つ人間になりたい」「自分を必要としてほしい、愛してほしい」という欲求が、優生思想と権力者への承認欲求に絡め取られ、19名の障害当事者を死に追いやっていったのではないか・・・・記事を読んでいて、そう感じました。

 虐めも、抑圧と分断の中で「人と繋がりたい」という欲求が歪んで表れたものと言えると私は考えています。ヘイトスピーチに流れてしまう人たちは、自分を否定せず誰かと共感し何か同じ目的を持ちたいという欲求があるのだろうと思います。人間は悲しいほどに関係性の中に生きることを求める性分を持ったいきものだと感じます。

 殺人を選んだ彼の責任は必ずあるし、それは許されることではありません。
殺された19名と殺人を肯定し続ける植松氏を並べてしまうのは暴論だけれど、しかし、誰が前者の命を奪い、誰が/何が後者の人間としての心を奪い凶事に駆り立てたのかを 考え続ければならないと思います。
間違っていることを正すために言葉を伝えることも大切だけれど、「人の命は誰しも大切だ」と言っても通じない。どうしてその人がここまでのことをしてしまえるようにまでなったのか。人間としての善き心、命の温かみある本質を失くしてしまうまでに何が起きていったのか。その背景、彼の歴史があるはずです。
暴力を「正義」として突き進んでいる背景にある孤独と枯渇、焦燥感は彼一人の問題ではないのではないのではないかと思います。

 「ワタシは関係ない」と意識から外していることにも気付かない人たちに届く言葉や行動を紡ぐためには、その一人一人のおかれている生きづらさ、背景を想うことも求められると思います。そこに届く言葉や行動を模索していかなければ、対立や憎しみは暴力を増徴させていくこともある・・・。人を非難するのではなく、糾弾するのではなく、人間として目指す方向を共に歩もうという愛を盛った呼びかけができるようになるにはどうしたらいいんだろうと思います。とても難しいことです・・・。

 敵は命を冒涜し 孤独につけこんで人間を支配し、意図的にコントロールしようとしている勢力、優生思想。これは「思想」とは呼べない、抑圧と暴力を横行させる概念です。
植松氏は「首相に褒められたくてやった」とも発言していたと思います。それについて首相はノーコメント、沈黙で肯定しました。 社会の中の障害者への差別と優生思想がヘイトクライム(憎悪犯罪)になったのが相模原事件だと思います。犯人の殺人に至る思想と行為を容認・賛同するようなネット上の発言も目立ちました。刑務所にいる彼が今も反省をしないでいることは、社会の中の空気をよく表していると思います。自民党議員からのLGBTQの人たちへの差別発言も確信犯で野放しにされてきていますが、その言葉には明確な障害者差別が含まれています。権力の中枢にいる人たちが優生思想を拡散し、強化し続けている社会であると言えると思います。

そうした流れ、情報のアンバランスさがあるにしても、それでもこの事件を簡単に忘れて通り過ぎてしまえる一人ひとりは、殺人こそ犯していなくても無意識かで死者の命を選別し差別していると言えると感じます。人の魂を殺し尊厳を簡単に踏みにじる<差別〉と誰もが無関係ではないということが、最低限の認識として必要と思います。
言葉を発さなくても人は目線ひとつ、ため息ひとつで人を失望させたり死に追いやることもできてしまう。「ワタシは差別はしていません」と断言できてしまう人ほど、自分の暴力性や過失に気付けません。そして、こう書きながら、私もそういうことをしてきたし、今もやってしまってるかもしれないと空恐ろしく思います。(自分が精神の当事者になれたことは苦しくはあるけど、生き直すために天から与えられた転機だったと思います。もちろん、当事者になっても自分も差別者の立場や責任からは免責されませんが。)

 私の中にもある優生的な思想、優劣、美醜、競争、支配・・・。自分の感覚や認識は、本当に自分が納得し選びとり決めているものだろうか。知らず知らずに支配され、思い込まされてきたことに気付くために何が必要か。忍び寄る支配から自由であるために学ぶこと、だれかと話したり、文章を書きながら違和感について考え、表明し続けることがとても大切だと感じます。

 行き詰った社会・世界の中で、孤独と枯渇を暴力や抑圧の温床にしないために、人と愛や共感をもった関係性を培っていけるように自分にできることを自然に、最大限しながら暮らしたいです。
もうこれ以上 まだ見ぬ誰かを失わないために 奪われないために。そして、自分自身を見失わないために。

一年前の今日は、2018年7月6日に引き続いてオウムの元信者たちの死刑がまた7名も執行された日でした。
殺された人たちのことを覚え、これからを歩みたいと思います。