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2018/10/22

ミヒャエル・エンデ 『モモ』からのワンシーン

 数日前から、数年ぶりに ミヒャエル・エンデの物語り 『モモ』を味わっている。

 下記の引用箇所は、主人公の女の子 モモが時間泥棒である灰色の男たちの働きで、友人たちを奪われ、その上 見張られ、圧倒的な孤独に置かれているシーン。



 毎日一回、モモはニノのところに食事に行きました。でも話をすることは、さいしょのときとおなじようにはほとんどできません。ニノはあいもかわらずいつもいそがしく、ぜんぜんひまがないのです。
 一週間がひと月になり、また数か月になりました。でもモモはまだひとりぼっちです。
 たった一回ですが、モモはある夕方、橋のらんかんに腰かけているとき、とおくの別の橋の上に、背をまるめた小がらな人のすがたを見かけました。その人は、まるでいのちがけで掃いているというようすで、ほうきをふりまわしていました。ベッポにちがいないと思ったモモは大声で呼びかけて手をふりましたが、あいてはちょっとの間も手をやすめません。モモはかけだしました。でもその橋についたときには、もうどこにもそのすがたはありませんでした。
 「きっとベッポじゃなかったんだ。」モモは自分をなぐさめました。「そうよ、ベッポじゃないにきまってる。ベッポの掃き方なら、あたし知ってるもの。」
 出かけずに円形劇場のあとのうちにいる日もありました。ひょっとしたらベッポが、モモがもどったかどうかを見にくるかもしれない、きゅうにそんな気がしたからです。もし出かけていれば、まだゆくえ知れずだと思われるにきまっています。でも、そうしていてもやはりおなじ心配が心をくるしめます。ベッポはるすのあいだにきたのではないか、一週間まえか、もしかすると、きのうにも!
こうしてモモは待ちましたが、もちろんむだでした。そのうちにとうとう、へやの壁に大きな字で、「かえっています」と書いておくことにしました。けれどいつになってもこれを見たひとは、モモのほかにはいませんでした。
 でもただひとつだけ、このあいだじゅうモモからはなれないものがありました。マイスター・ホラのところですごしたときの記憶、あの花と音楽のあざやかな記憶です。目をとじて、じぶんの心にじっと耳をすましさえすれば、あの花々のかがやくばかりにうつくしい色が目にうかび、あのたくさんの声の音楽が聞こえてきます。そしてさいしょの日とおなじように、そのことばをじぶんで口ずさみ、メロディーをうたうことができました。とはいえ、そのことばもメロディーも、日がたつごとにたえず新しく変わり、けっしておなじままではありません。
 モモはときどき一日じゅうひとりで石段にすわって、そのことばを語り、うたいました。聞いてくれるのは、木と、鳥と、廃墟の石ばかりです。
 孤独というものには、いろいろあります。でもモモのあじわっている孤独は、おそらくはごくわずかな人しか知らない孤独、ましてこれほどのはげしさをもってのしかかってくる孤独は、ほとんどだれひとり知らないでしょう。
 モモはまるで、はかり知れないほど宝のつまったほら穴にとじこめられているような気がしました。しかもその財宝はどんどんふえつづけ、いまにも息ができなくなりそうなのです。出口はありません!だれも助けに入ってくることはできず、じぶんが中にいることを外に知らせるすべもありません。
それほどふかく、モモは時間の山にうずもれてしまったのです。
 ときには、あの音楽を聞かず、あの色を見なければよかったと思うことさえありました。それでも、もしこの記憶を消し去ってしまおうと言われたとしたら、どんな代償をもらおうと、やはりいやだとこたえたことでしょう。たとえその記憶の重みにおしひしがれて、死ななければならないとしてもです。なぜなら、いまモモが身をもって知ったこと――それは、もしほかの人びととわかちあえるのでなければ、それをもっているがために破滅してしまうような、そういう富があるということだったからです。――

(ミヒャエル・エンデ 『モモ』〔大島かおり訳/2005年版、岩波少年文庫〕
 16章「ゆたかさのなかの苦しみ」p315-317)


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 文学、すごいな・・・って。
心が震えて、身体にあらわれる。涙が自然と溢れたり、手が熱くなったり。こんなにも慰められる。

長くも短くもない自分のこれまでの人生の中で、最も痛烈な孤独を感じていたあの膨大な時間の期間を思い出す。

 特に子どもにむけた名作は児童書も絵本も、大人の一人である作家が、世界の美しさや希望や可能性、人間の善さ、面白さ、真理を 次世代に手渡す為のものとして選ばれた言葉から紡がれ、織りあげられた物語りなのだと感じる。

 不条理と不平等のこの星の上で、母語の読み書きも、本を読む自由も時間も、与えられている自分の現在地点。
ありがとうございますというお礼と、申し訳ない・ごめんなさいというお詫びと、これからの自分で意味を持たせられる日にいつか行き着きたいという願いと決意がないまぜになっているような胸のうち。

 ほんとうの善きことばは生き残ったわたしたちをつなぐ光、なんだ。
そういうことばを本当に選べるようになるためにも、あの孤独を時折おもいだす必要が私にはあるんだろう。


時間の花2
時間の花

 昔に撮らせてもらった蓮の花。やっぱり時間の花みたい。


 昔、『モモ』のはじめからおわりまでの読み聞かせを一人の人にずっと聴いてもらえたことがあって、その時ほんとうに楽しかった。そういう体験と歓びの記憶がある。
いつかまたやれたらと願う。 もし、できるときがあれば、未来に大人として生きねばならない、今を生きる大切な子どもたちに捧げたい。そして、『星の王子様』になっちゃうけど、子どもだったころのあるすべての人のためにも・・・。

今夜は最後まで読めるかもしれない。
穏やかに楽しみながらも、心して 大切に読めたらいいな。

神様、私と皆様の命をありがとうございます。 この世界を、全てのいのちの営みを創り与えて下さったことを、こころより感謝します。
読んでくださって、ありがとう。
風邪をひかないように気をつけて。 おやすみなさい。