2017/12/07

沖縄へのヘイトスピーチ問題から考えたこと。

●まとめサイトの記事〔自民系「チーム沖縄」のネトウヨ市長「辺野古反対で海保自殺」→デマでした。〕https://togetter.com/li/1081940

  うーん。ついに辺野古で抵抗して下さっている皆様への嫌がらせのために、敵方は、「人を死に追いやった連中である」なんて言い出したのか。恐ろしい嘘を考えつくよな。都合に合わせてデマで叩いて無かったことにするって寸法ですね。何事も段取り、とは言え、良心・誠実さ共に完全に皆無とは、予想以上です☆。 あまりの思い切りのよさに、驚きすぎて口が開きます。ハイ。
 今の日本はもう人間の根幹にある誠実さや愛、つまり嘘つくなとか、言ったことは責任もってやるとか、子どもや高齢者を思いやる、など!そういう人間どうしの生活約束すら滅びたのかと、全ての場所がそういうわけではないけれど、かなり侵食されているのはどうやら事実らしいと現実の寒さに身が縮みます。

 こういった方たちの人間性の酷さは予想より遥かに低俗で、正直に申し上げると、「理解不能」どころか、「人類の存在価値について心底失望してしまいそう」になります。人間は悲しいですね。


 こちら↓の映像は価値あるドキュメンタリー映像です。毎日放送2017年1月30日放映のもので、だいじな仕事です。悲惨な現実を伝えていますが、その状況を打破するのは、真実を闇の世界から表舞台に引きずり出し、人々の意識を変え、悪に立ち向かえるようにさせるしかないからです。今年の2月ごろ人に薦められ、テレビはないのでネット上で配信されていたのを視聴しました。現在、youtubeに映像が見れましたので、ご紹介させて頂きます。

●MBSドキュメンタリー 「映像’17 沖縄 さまよう木霊~基地反対運動の素顔~」


 日本(ヤマト)の右傾化、沖縄の市民へのサイバー攻撃とメディアの暴力におののきます。現状はここまで来ているのかと衝撃を受けました。まだ観ておられない方、どうかこの機会に是非ご覧ください。
私自身は、観おわったとき、現実の悲惨さに衝撃を受けて、気分が重量級となり、次の日しっかり体調を崩して寝込んでしまいました。もし、感想の持ち方次第で心身が疲れてしまわれるという方は、寝坊してもいい休日の前日などが適切かもしれません。(あくまで個人の感想です。)



 暗い歴史を都合よく忘れて、戦争や差別を再生産しようとする人たちは嘘をつくことを微塵も厭わない。自分の目的のためなら真実など捨ておく。金と権力とオトモダチに飢えている彼らは、安い「愛国家精神」により、つながっているような気になっている。オトモダチと共に誰かを標的にし、卑劣なやり方で集団で虐めぬく。

 標的を攻撃し、脅すことによってしか誰か(他人)と繋がれないヒトビト。彼ら、彼女らは今度は自分が標的かもしれないと心理の深いところでは、いつも恐れている。「仲間」を本当には信じられない。自分でそれに気がついてしまわないように、自分の気持ちには意識を向けようとしない。そのため、愛国家精神を過剰にアピールしたり、攻撃対象を次々探したり、派手なパフォーマンスで「仲間」を威圧するような意味もこめ、被害者をより一層 痛めつけようとする。このようなニワトリの虐め行動のような行為が、極めて幼稚かつ惨めな「連帯」を強めるために行われ続けている。

 彼らは、ほんとうには何がしたいのだろうか。

 いじめとヘイトは、ほぼ同じものだ。90年代の学校での いじめは、共にいじめる「友人」や「仲間」の存在があって初めて成り立つ。それは、90年代以降の虐め方が、集団(多人数)で個人(標的)に無視や虐め行為の嫌がらせをするパターンを基本にしていったからだ。
 「虐めている側の自分は《人間関係がある側の人間》なんだ」 と、自己の存在を必死で確認し、自分の無意識に言い聞かせている。この行動は、誰か(他者)との信頼関係がある、自分も一役買っている、みんなで協力できている等々と、つまるところ錯覚でも構わないから、人に必要とされ、他者と協力して何かを成し遂げたというストーリーを展開していくための言動なのだと私は考える。これをネットやメディア上も含めて社会的に実行しようとしているのがヘイトスピーチなのではないだろうか。

 2004年に起きた 春のイラク人質事件、秋のイラク人質事件の幸田さん殺害から、「自己責任」とバッシングが顕著化した印象がある。

 ヘイトスピーチといって私が思い浮かぶのは、在日や朝鮮学校への差別や暴力(朝鮮学校やウトロ地区など在日の方が住まわれている地域への在特会の暴力や嫌がらせのデモ等)。また、身体・知的・精神の障害者に対しての優勢思想に立ったヘイト(最近では相模原事件、バニラエア事件など)。中国や朝鮮半島の国々の人たちへの差別や暴言、報道もそれを煽っていること。
ハンセン病回復者の方や、原爆被災者、原発被災者や被災地への終わりなき差別と無関心。生活困窮者や、生活保護者や年金受給者など社会福祉における受給者へのバッシング。フェミニズムや性の個性や自由の保障へのバックラッシュなど。薬を盛られレイプされたことを、他の性暴力被害者をこれ以上出させないためにと、全てをかけて実名と顔出しで訴えた勇気あるサバイバー当事者 伊藤詩織さんへの攻撃やネットに溢れる暴言ツィッターの数々など、人間業とは思いたくない冷酷な低俗さだ。

 残念ながら、社会や世界はここまで来てしまった。
沖縄へのヘイトスピーチも、宗教や人種の差別も、時を追うごとに酷くなっている感がある。血の気がひく。日本社会に充満するヘイトスピーチに息が詰まるどころか、戦々恐々としている。標的にされる当事者は特にだし、今やこうした広範囲に渡る標的理由を見ると、これらから「完全に外れるきる」と言いきれる人は、そうはいないのではないかと疑ってしまう。

 ヘイトは留まるところを知らず、非常に加速している。人々は、社会的抑圧からのストレスを抱え、内心は孤独と苦しみ、そして劣等感を嫌というほど味わっている。そうした憂さを晴らしたい一人ひとりの切なるSOSが、今やほかのより弱い立場の誰かに「八つ当たり」としての「ヘイトスピーチ」となっている。そして、これが連結巨大化しヘイトクライム化する状況となってきた。
新聞は毎日のように、世界の白昼「テロ」や銃の乱射事件、車や少年兵による自爆攻撃による死者数を報道している。そこには「イスラム過激派」の事件も多いが、白人男性至上主義的な事件もある。

 日本では、関東大震災の時に起きた日本市民による朝鮮人や中国人の大虐殺事件も、確信犯の小池百合子 東京都知事によって無かったことにされつつある。兵士でもない一般市民が暴徒となって6000人殺したこの事件の歴史は、「従軍慰安婦」のように日本社会でだけ無かったことにされるのであろうか。あの石原慎太郎でも記念日には追悼文を送っていたというのに、彼女はそれをしなかったという。より酷い道を転がっている実感に寒気を感じる。
(「在日朝鮮同胞慰問会」の調査として2613名という数字を示し、さらに調査を続けた同会が〈難に遭った朝鮮人の実数は6千人以上〉と発表。また、日本語における標準語の発音がスムーズにいかなかった東北や沖縄、四国地方の人たちも殺されている。また自警団の態度に抵抗した日本人たちも存在したが、暴徒となった日本人「自警団」に殴り殺された人も少なくなかった。)
(参考:id:Vergil2010さんサイト『読む・考える・書く』から、「トロッコに乗せてくれた親切なおじさんも殺されたー9歳の少女が体験した朝鮮人虐殺」 2017年12月7日記事 )


 しかし、このようなジェノサイドが起きる直前は、そんなにヘイトも横行しておらず、表面上は普通に割合フランクに暮らしていたらしい。なのに、この行動。この被害だ。きっかけは警察の流言であっても、ふつうの人たちがこんなにも人を殺し続けたことを、どう考えるべきだろう。普段は見せないで、心の内側に持っていた差別が爆発したのだと考えられる。
では、今ならどうだろう。今、同じようなことが起きたら、どうなるのだろうか。むき出しのヘイトが横行している現在、もし同じように混乱が起き、私たち市民を守ってくれるはずの警察が90年前にやったのと同じように意図的にデマ、流言を流したら? どうなるだろうか。

想像するのも恐ろしい。

(参考:佐野由自さん記事「ヘイトクライムのピラミッドー差別と憎悪の裾野が広がっている」2016年8月5日 記事



 それにしても、せっかく人間に(しかも世界のうちでも自然環境やインフラ、また社会福祉に恵まれ、今の時点では徴兵制もない現代日本社会に)生まれたというのに、自らの生の善きものをドブに叩き込み、それに飽き足らず他の人間の尊厳まで躍起になって奪おうとし、それが実行できたら得意満面になるなんて…、一体どうなっているのだろう。だれかを傷つけて喜んでいるなんて歪んでいると思う。はっきり申し上げて、不幸としか言いようのない哀れな方たちだ。可哀想なくらいだ。この人たちは家族や友人、通りすがりの誰かでもいいが、他者に親切にされたり大切に扱ってもらったような、つまりは愛してもらった経験がないのだろうか…。
しかし、そう考えてみると、もしかするとこうした加害行為は、その人が受けた何らかの被害の裏返しかもしれない。そう思うには理由がある。私も虐められた経験があってか、そういう思想に染まったことがあるからだ。

 突然、自分の過去の話になり恐縮だが、私は中学3年生の冬(15歳のときだったが)、学校の図書館で借りた小林よしのり『戦争論』という漫画に影響され、私もそういう思想とも呼べない思想に染まっていた。それは、日本国という国家に、幸せな暮らしや命、そして人間の尊厳を奪われたアジア・太平洋地域の人々の人生を足蹴にし、存在を根源的に否定する考えだった。そして、歴史を強者の都合に合わせて書き換えるこの「歴史修正主義」は、あれだけの死者と、地獄を生きてきた生存者たちの犠牲には目もくれず、この上、更なる差別と戦争を招こうとしている。

 大学に行き教育を受けていなければ、私はそんなままだったろうと思う。大学2年の時、やっと思い直し、本を読み、小林よしのりの嘘を直視し、彼の思想を受けた自分の闇に踏み入る覚悟をした。学べる空間に送り出してくれた親と、未熟かつ無知な私を愛を持って受けとめてくれた恩師たちや学友には本当に感謝しかない。

 そして、運命的に出会えた、日本軍が侵略した様々な国の戦争体験被害当事者の皆様の存在…。次々と、お顔やお声が想い浮かび、懐かしい。声を出さないように泣きながら証を聞いた。忘れられない。

私は神様に守り導かれ、多くの人に軌道修正され続け、ついに 生命を尊ぶ世界に戻ってくることができた。

 わたしが赤ちゃんの頃に、父方の祖父は肺気腫で亡くなった。私が赤ちゃんのとき、一度だけ抱いてもらったことがある。その写真が私の1歳までのアルバムに一枚だけ貼られている。生後三ヶ月の私に初めて対面した日の翌日、祖父は天に旅立っていった。一言も会話できなかった私の祖父。戦時中は中国に出征していたと聞いた。子どものころ、彼が戦場でどんな体験をしたのか、私はとてもとても知りたかった。
(「優しかった」というおじいちゃんも中国の人を殺したのだろうか?)
ずっと心の中で問いかけていた。
しかし、誰にも訊けなかった。そのため、誰からも、何も教えてはもらえなかった。
子ども心に真実を求め、そうして学校の図書館の新刊コーナーで手に取り、読んだ本が『戦争論』だった。

 このことは想像を絶する間違いで、根深い痛手となった。今から考えると一歩間違えれば、生きる意味の損失になりかねなかった。そのように、まんまと奪われた自分の生きる意味を取り返しきるのに15年以上はかかった。しかし私がどんなに「あれは今の自分とはチガウ」と言い訳したとしても、この件については、私の一生涯の恥であり、罪だと思う。忘れてはいけないことだ。

 人間は変われる。それは、本当のことだ。しかし、言うまでもなく容易いことではない。
私は、15歳当時、家に帰ってこの歴史誤認漫画を二つ年下の弟に強くすすめ、読ませた。このことにより、彼の歴史認識は当時の私のようにしっかりとこれに染め上げられた。大人になった現在も、その考えを持ち続け、朝鮮半島を植民地にした歴史や、在日の方たちの現在についての理解は無い。この人はとても優しい気持ちの持ち主だが、その優しさや想像力は日本の戦争により苦しんだ人たちには断じて届かない。今となっては悔やんでも悔やみきれず、思い出すたびに気持ちが塞ぐ。そして、このプロパガンダの源流に対して怒りが膨れ上がってくる。

 人間というのは、誰かにどんなに上手いこと言われても、自分で自分を変えようと決意し、行動しなければ変われない。変わりようがない。自国の想像を超えた情けなく残虐な歴史の真実に目を向けることも、自分自身の恥や黒い過去と向き合うことも、どちらも覚悟と強さがいる。それは、結局のところ「どんな人間として生きたいか」という、その人の核にある決意された魂の目標のような想いじゃないだろうか。自国の侵略の歴史をどう見て、この国の中央にある国家権力にどういう視線を投げるのか。そして、自分自身の人間の尊厳の在り方をどのようなものに据えるのか。この二つは密接につながっているように思えてならない。



 へイトスピーチは、優しくて勉強もできるし社会的な問題にも関心があるような、誠実なタイプの中学高校大学生に、よく感染する。その為、大人は、日々こどもとなるべく対話をし、差別情報を得た子どもの発言に 気付き意識を向ける必要がある。その上で、否定的に叱り正しさを強要するのではなく、しっかり腰をすえて話し合うことが必要と思う。子どもが正しい情報を自分で取得ができるように心的余裕をもってアドバイスし、時には読み物や映像作品を薦め、ヘイトスピーチの間違いや差別、ヘイトに漬け込まれてしまいかねない自分の心にある闇を、ゆっくり着実に気付かせていけるようにすることが大切だと私は考える。


とはいうものの、大人自身がヘイトにまみれていて、それが当たり前なのが現代の悲惨な現状だし、社会的意識や思想を持つことも今の世の中では少数派だ。自己を問い直し続ける道は、楽じゃない。楽でもない簡単でもないことに、どうやって「取り組もう」と思わせることができるというのだろう。道のりはとんでもなく険しい。呆然とし、現実逃避したくなってしまう。


 でも、まぁ、
考えることを決して止めないで、周りの人にアクセスし続ける勇気をふり絞り、
自分自身とも周りの人とも丁寧に対話することをやめずに生きていければ、現実のどこかを、少しずつであっても、変えていけるのでしょうね。
「いやいや、そんなの無理でしょ!!自分は全くそんなことやりたくないし出来ません!」という方も、おられるかもしれません。
けれど、
とにかく現実を知り続けていこうとしていきましょう。
この末期的な現実下で、自分には何もできないと思っても、「俺はヘイトに騙されやしねぇぜ!」という心意気を持ち、誰と共有できなくても、しぶとく真実を求め続けましょう。

誠実に真実を求めていけば、いつの日か真理に辿り着けるかもしれません。
神様は聖書の中で、
「真理はあなたたちを自由にする」(新約聖書 ヨハネによる福音書8章32節より)
とおっしゃっておられます。

私は、これを真実だと思い信じています。
こんな世界でも、自由になる方法が残されています。

だから、なんとか諦めないでいきましょう。

人間を、地球を、いのちを想う祈りを止めずに、お互いの光を灯台にして、どうにか生きぬいていきましょう。ね!


   最後まで長文にお付き合い頂きありがとうございました
   感謝申し上げます