2012/08/06

2012年8月6日の朝に ‐脱原発、脱核を求めて

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマとアウシュビィッツとパレスチナ


(1)
平和への誓い(2009年8月6日 小学生代表二人)
 人は、たくさんの困難を乗り越えてこの世の中に生れてきます。お母さんが赤ちゃんを産もうとがんばり、赤ちゃんも生まれようとがんばる。新しい命が生まれ、未来につながっていきます。それは「命の奇跡」です。

 しかし、命は一度 失われると戻ってきません。
戦争は、原子爆弾は尊い命を一瞬のうちに奪い、命のつながりをたち切ってしまうのです。
昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。それは人類が初めて戦争による被爆者をつくりだした時間であり、世界が核兵器について真剣に考え始めなければならなくなった時です。

あの日、原子爆弾は広島の街を一瞬にして飲み込みました。建物は破壊され、多くの人々が下敷きになりました。
人々の皮膚はボロ布のように垂れ下がり、「助けて」「水をください」と何度も言いながら亡くなっていったのです。
それは、人間が人間らしい最期を迎えられなかった残酷な光景でした。多くの夢や希望を一瞬にして吹き飛ばされた人たちの悲しい「闇」の世界でした。

世界の国々では 今も、紛争や戦争によりたくさんの命が奪われています。僕たちのような子どもが一番の犠牲となり、体に傷を負うだけでなく、家族を失い心に大きな傷を負っています。
日本でもまだ多くの人たちが原爆の被害で苦しんでいます。入退院を繰り返す被爆二世の人もいます。
だから、まだ戦争は終わったとは言えません。

これから先、世界が平和になるために 私たちができることはなんでしょうか。

それは、原爆や戦争、世界の国々や歴史について学ぶこと、
けんかやいじめを見過ごさないこと、
大好きな絵や音楽やいろいろな国の言葉で 世界の人たちに思いを伝えること。

今の私たちにできることは小さな一歩かもしれません。けれど、私たちは決してあきらめません。
話し合いで争いを解決する本当の勇気を持つために、核兵器を放棄する本当の強さを持つために、
原爆や戦争という「闇」から目をそむけることなく、しっかりと真実をみつめます。
そして、世界の人々に、平和への思いを訴え続けることを誓います。


私は、平和資料館で平和集会の子ども代表だった小学6年生の2人が読んだ原稿に目を奪われ、心を鷲掴みにされました。それを全てメモしてきたのが上の文章です。


深い感動に包まれ、思わず全文を写していたら時間切れになり、まだ半分しか回れていなかったのですが走って出口に向かいました。原爆投下直後の様子が再現された場所を走り抜けながら、自分が家族を捜し求めてヒロシマの街だった場所を走っているような感覚にとらわれました。

表にでて、陽の光が本当にまぶしかった。かつては材木町という町があったその場所に住んでいた人は全員が亡くなったということを知りました。説明板にある写真に写されたすべての人が、あの日、ここで原子爆弾に殺された。


年表をみて驚いたのは、
原爆ドームの保存工事が終了した完成式典が、投下翌年の8月6日だったことです。
それが広島平和記念集会の第一回でした。
広島市民は、焼け野原になった被爆地で
「各々の暮らしを立て直すことよりも大切だが、核兵器の悲惨さの証である現状を消してしまわないで先ずは遺すことを優先する」。そう決意したのだと感じました。

だからこそ、
東京も大阪も名古屋も高知も、空襲で焼け野原になったのに 広島のみが、建物をたてずに平和を作るための公園にしたのではなかったでしょうか。その広大な敷地に私は圧倒されました。行政がそうした姿勢を崩さずきたから、それが維持されており、日本どころか世界でも一番大きいであろう平和資料館があり、そこの入場料金は50円(こどもは無料)なのだと思うのです。

2010年春、イラク戦争開始から7周年の3月20日に私は広島の平和公園と平和資料館に初めて行きました。世界で初めて民族を越えた戦争への想い、世界平和への希求が実体化した場所であることに気付き はっとしたのです。

広島をヒロシマにしたらしめたのは、ヒロシマを生き残った人たち。
自分の人生、故郷のすべて、家族や友人のすべてを一瞬で奪われた
怒り、苦しみ、殺された人たちの無念さ

 ― もう二度とこんなことを起こしてはいけない。
  全ての戦争、すべての核は 人類には必要ない!

という声なき叫び。

植えられていた椿が美しい花を咲かせていました。



(2)
日本では2011年3月11日に大型地震が起こり、その数日後 福島の原発が次々に爆発するという終末の映像を私たちはみました。
美しい故郷を奪われた方たち…。
安全な世界を改めて奪われた私たち。
移住を余儀なくされた方、
その場に留まらざるを得ない方、
そこに住み続けると決意された方たちがいます。

日本社会は放射能を意識し暮らさざるを得なくなりました。
世界からは日本は被曝国とみなされるようになりました。

そして電気を使う自分の生活について問い直され、考える人と考えない人の境目がより一層 明白になっていきました。
首相官邸前で、福島の女性たちがダイイン(死んだふりをするパフォーマンス)をしました。
4万5千人が官邸前で、デモでは17万人もの人が原発をやめろと訴えました。けれど、それを伝えるメディアはありません。新聞も書きません。
原子力発電をどうしても続けたい者たちが国を動かして、メディアも牛耳っているからでしょう。
日本は財政難だとか、赤字があるとか、消費税を上げるとか、いろいろ言われているけれど、
軍事費以上の巨額な資金を原発や核燃料サイクルに投入し続けてきました。

アメリカは原爆を二回も落とした国に核兵器プラントである原発を売りつけました。
許されませんが、
それを買う日本国家の罪はそれ以上です。アメリカに売りつけられた原発を、現在は日本企業(東芝、日立、三菱など)が受注しています。それを海外に売りつけて儲けるため、そしてプルトニウムを作って核兵器を持つ目的があるがために原発は止められないのです。日本の財閥・軍閥が戦前・戦中・「戦後」である今現在も、この日本社会を支配してきたということの意味を考えなければならないと思います。先の大戦の責任者たちは、戦争と核兵器によって、今は原発事故と放射能被害によって国民を騙し、殺し、儲けて権力を維持しているということに激しい怒りを感じます。

原発は、核兵器をつくる工場です。そこで電気も作り、それを市民の生活に強制的に供給することで文句を言わせないという構造的な支配システムです。

核兵器には、原子力爆弾にも水素原子爆弾にもプルトニウムが使われますが、これは数年ごとに入れ替えをしなければ 核兵器として維持できません。
そのため、自国でプルトニウムを生産できるようにならないと核兵器はほんとうには保持できない。しかしプルトニウムを作る高速増殖炉もんじゅは日本に既に在ります。

国と民を売って、原発事故後もなにも反省をせず、ひたすら核の「平和利用」として続けていこうとする権力者たちであるこの国家。許してはならないと思います。


(3)
あるドキュメント映像の中で、路上で寝たきりになった方に、原発労働に行ったことがあるか訊ねている場面がありました。
消えいるようなか細い声で、原発のある地域の名前を言ったあの男性は、もうこの世におられないでしょう。

路上で生活している野宿生活者、また日雇い労働者の方たちが、全国に3万人は確実にいると言われています。(神社仏閣におられる方もカウントしたら、もっとおられるでしょうか。)大阪だけで1年のあいだに200人から800人の方が道の上で亡くなっていると言われています。
この50年、どれだけの方が亡くなったのでしょう。その方たちのうちのどれくらいが原発の下請け労働に従事していたことがあったのでしょうか。
原発労働者、また周辺に住む人の身体に影響があるのかどうか、国はまともに調査したことは一度も無いのです。何百、何千、もしかしたら累計で万規模の被曝(ひばく)労働者を生んできたと考えても不自然ではありません。

先述した映像のあとに、「事故があるのは単純作業労働者のミスですね」と言っていた 電力会社の重役の笑みを10年たった今も私は忘れることができません。
「じゃあ、あなたが炉に入って作業してください。事故が起きないように!」と私は言いたい。
人間を、他者を使い捨てる方法でしか実現できない技術なんて 欠陥です。

何のために、それが存在するのか。そこに立ち返って考えることが必要だと思います。
原子力発電所の存在理由がほんとうに「人々の暮らしに必要な電気を作るため」であるならば、人体や環境への有毒性は許容されないはずです。
「他人ならかまわない」という思考は、自分自身を自身をも阻害していくのではないでしょうか。

2001年、美浜原発の細管破裂事故の現物を 大学の見学授業でぶ厚いガラスごしに見たとき、
「原発のごみは、未だに処理する方法がないのではないですか」と訊ねる19歳の私に、
関西電力の重役の方は「それを何とかするのが技術者の使命なのですよ・・・!」と潤んだ目であさってを見つめて力強く呟くように答えました。その姿を目の当たりにしたときのうすら寒さと恐さを忘れることはできません。

発言権を強くするために核保有国の仲間入りをしたい外務省、
私欲を貪る企業、政治家たち。
そして、それを下支えする己の欲求のみを追いかけ、現実よりも男のロマンを求める技術者たちのメンタリティ…。

二酸化炭素をつくらないのは発電時だけのことで、そこに至るまでのみちのりは、火力発電所をつくるよりも何倍も電気が必要になり、したがって二酸化炭素の排出も多くなります。
燃料のウランを掘り出して精製して燃料にする過程にも、膨大な電気が使われて、そこで二酸化炭素が生まれています。

二酸化炭素は人を直接は殺しませんが、放射能は殺せます。

自然界にも放射能はありますが、ウランは土中に埋まっているあいだは放射線をだしません。
だから、そこは先住民族の聖地である場所だったりしたのです。
(例えばオーストラリアのジャビルカ鉱山はアボリジニーの聖地で「悪魔の山」として恐れられてきました。
 オーストラリアの電力会社と丸紅の合弁会社がそれを掘り起こし、そのウランを輸入しとるのが関西電力だったりするわけです。)


浜岡原発にも行ったことがありました。
原子力PR塔の最上階の展望台から眺めた日本海の夕暮れ。
左のガラスには海岸線にある5機の原発、右のガラスには街を対比したあの光景…。
「チェルノブイリの人たちもこの近さに驚いていたそうです」という解説を耳にしながら、街の家々と海岸線を染めあげる美しい夕日をみていました。雲がピンク色に染まってとても美しかった。

私の生活のための電気は、この地域の人の暮らしを犠牲にしている。
そして、
「もし事故が起きたらこの地域に住む人だけではなく、自分も含めた世界のひとたちを巻きこむ危険を余りにも強く持っている」と思ったのが20歳の時でした。

そして、福島で起きてしまった原発事故……。


(4)
第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺・ホロコースト。
(※ナチスはユダヤ人のみならず、ロマ民族(ジプシー)、セクシャルマイノリティ、精神病者たちも大量に虐殺しました。
ホロコーストを経験したユダヤ人たちは、第二次世界大戦が終わった後、つまりアウシュヴィッツ強制収容所から解放されたあとも、難民としての悲惨なキャンプ暮らしを強いられました。そこでも大勢の方が亡くなられた。
そうしたホロコーストを経験した人たちが、悲願としての故国 [イスラエル]を建国しました。
イスラエル建国はパレスチナの人たちにとってはナクバ、(厄災)となり、パレスチナ難民となり、その人たちへ向けられる暴力はますます熾烈を極めています。)

「もう誰にもこんな思いはさせられたくない!」と言いながら、イスラエル軍はパレスチナ人という存在そのものをこの世から消し去ろうとしています。

ホロコーストを被害者から加害者になって再現するイスラエル・ユダヤ社会。
その闇を想うときに、はっとしました。

日本はアジア太平洋地域で、死者だけでも2000万人という侵略・占領・植民地化 という戦争をやってきた。
そして、正式に謝らないままとはいえ憲法9条を表明して、建前は戦争を放棄したが、きちんとした反省をやってこなかった。
それなのにイラクへ軍隊を派兵してしまったこと、そして国民投票法案が通ってしまっていて憲法が改悪される状態に限りなく近い状態であること。
その上、
もし、世界で初めての(戦時下における)、唯一の核兵器使用被害を受けたヒロシマ・ナガサキのある日本が 原発を、ひいては核を捨てないということはどういう意味を持つのか…。

そういうことを考えて生きていたら、2010年に福島原発が爆発するという最悪の事態になりました。広島・長崎で被爆された二重被爆の方もいらっしゃるということです。そんなことが起こりえていいわけがないのに。

世界が原発と核兵器を放棄できるか否かは 日本にかかっているといっても過言ではないと思います。
強くそう思います。
世界中の国が核武装したとしても、日本だけは核兵器を、原発を、決して持ってはいけない。
大飯原発は、絶対に再稼働させてはならない。
なのに今動いている現実があります。

放射能に汚染されてしまった世界で、何一つもとにはもどらない。
しかしそれを認めず、過ちを繰り返そうとする日本政府。

これ以上汚染させるなんて
地球をこれ以上?

イスラエル軍のブルドーザーからパレスチナ人の家を守ろうとして、轢死(れきし)させられた
レイチェル・コリーさん(享年23歳)の言葉を借りるなら、

「こんなことはもう終わりにしなければ。
私たちみんなが、すべてを投げ捨てて、これを終わりにするために自分たちの人生を捧げるというのは、いい考えだと思います。
それは、もはや過激な考えではないと思います。」

国家権力との長いたたかいですから燃え尽きてしまわないように。
けれど精いっぱいやらないとまた間に合わないかもしれない。



いま、何ができるでしょうか。

ヒロシマ・ナガサキ
そしてフクシマを繰り返さないため、

わたしたちは 

人間として生きるために
全力で原発を止めなければならないと思うのです。






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