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2019/07/29

想い、分かち合うこと。

「イヤなものはイヤだし、おかしいことはおかしい!」
「これ以上恥ずかしいことを重ねたくない!」
そう表明していかないと、魂まで侵食されていきそうに感じるときがある。だから書く。諦めずに求めて続けて生きていきたいから、想いを書き出す。そして、誰も見てくれないかもしれなくても、読んでもらえるかもしれない場所に出す。
自分の感性や心に抱く違和感や抑圧を表現し、その先にある真に望む世界を確認し、誰かと共有したい。
だれかと分かち合いたいという欲求があるから私は書けるし、それによって自分自身で確認/発見するものもある。自分ではない誰かや、未来の自分に繋がるために、稚拙でも想いを書く。(母語の読み書きを習得できた境遇を与えられた者として、感謝しつつ。)
 
 何ができるわけでなくても、「心は負けない」って思う。
「オレの心は負けてねぇから!」って言ってた宋神道(ソン・シンド)さんの映画を思い出す。宋さんは亡くなったけど、宋さんの闘いは人間の真の尊厳と勇気を教えてくれる。そういう感覚を取り戻させてくれる。人間の心の内にあるものが言葉となり、目の輝きになると聖書にも書いてあった。かけねのない本気は人にちゃんと伝わっていくんだなって、山本太郎さんを見ていても感じる。

 大人である自分が世界の未来を諦めてないことを示すことが大切だと、友人のブログを読んでいて改めて思った。子どもたちの成長に携わる仕事をしている彼女の想いは、遠く離れていても私を励ましてくれる。そう、大人である立場の人間が諦めてしまっては、次の世代がどうやって希望を持ちえるというのだろう。「最近の若い人は・・・」って簡単にぼやく前に、若い人が置かれている状況を誰が野放しにしてきたかを考えなきゃいけない。若い人たちのせいにして、自分の責任を棚上げにするのはかっこ悪い。自分たちのこれまでの力不足を認めて、今何ができるかを考えていくことがだいじと思う。もうとっくの昔に大人の立場になってしまった自分に諦めるという選択肢は許されない。

 しかし、そうは言っても、現実の悲惨さに挫けてしまって心身ともに動けなくなるときが多々ある。心身のしんどさに、生き抜くため考えることをストップするときもどうしてもある。私はそういう時はとにかく休んで、また力が湧いてくるのを待つ。もうダメだーと思うとき。でも、そういうときに私には近く遠くに誰かがいてくれて、ポツポツ話していくうちになんとかまた心が動き出す。その繰り返し。
 私は心を分け合うことで、諦めずにいる今をなんとかかんとか繋いでいるんだなぁと思う。自分の周りにいてくれる人と出逢えた幸運と、その人たちの存在に感謝する。一方で、そういうとき誰とも話せないままに絶望から身を起こせない人もいることを忘れないようにしなきゃならないなと思う。自暴自棄になり引き起こされた犯罪にも、権力の思惑通り優生思想に染まり引き起こされた殺人にも、犯人たちの誰とも歩めなかった混沌とした孤独があったのではなかったか。差別や暴力を肯定せずには生きられない人たちの、生き苦しい現実の暮らしと寄る辺ない絶望がある。
きっと、誰もがみんな誰かと心を分かち合いたいと願っている。 誰かを虐げるために共謀することではなく。
 
 心ある誰かの行動を知ったり、想いを読んだりっていうのは、生きていくための心の灯火を維持するためにとても大切ことだと思う。逆に言えば、自分の想いを表明することにも もしかしたら意味があるかもしれない。(まあ、他者に意味がなくても自分に意味があるから書いていくんだけど…。)
いつか、誰かその人にとって、今の私を周りで支えてくれる人のような働きが少しでもできる日がきたらと願う。

 人間は言葉以外にも、共感するための様々な方法を、すでにたくさん持っている。それを活かし、人間としての可能性や気持ちを互いに分かち合う歓びを確保しながら、生きる気力を回復していけると思う。そうした回路をもっと深化させていければ、絶望に打ちひしがれた人の心にも新しい風が吹き、希望を灯すことも、心を燃やせるようになることもできる日もきっと来るだろう。

 生活のなか、何か活動できるわけじゃなくても、感じる自分、想う自分を手放さないでいたい。想うことを「無意味だ」と思い込まそうとする勢力が確かにあるけれど、人の想いはその人のもの。唯一無二の存在である自分自身の根拠だ。

 人間を権力者の都合一色に塗るファシズムの闇に対抗する最大の武器は、真実に想う事なのだと思う。だからこそ想いを分かち合うことは、ただのおしゃべりに見えても、そこからこれ以上 友人や隣人、そして自分自身を奪わせないようにする主戦場でもある。

2019/07/29

韓国と日本の関係について思うこと。

 韓国と日本を結ぶ航空便のなかでLCCなど比較的安価なものが、韓国政府の判断で減っていると新聞にあった。
 日本政府・日本社会の、戦争と植民地支配の暴力と抑圧の歴史の正当化してきたこれまでと、韓国社会と韓国政府に対する昨今の態度を考えたら韓国政府の判断は当然のことだ。散々の無礼を働き、仮想敵国化して罵り嘲笑しながら、その一方で「観光客をあてにしていたのに」とぼやく日本。なんという愚かさと醜悪さだろう。カッコ悪すぎるし、アタマが悪すぎる。改めて、自国の恥ずかしさを思い知り、一瞬 言葉を失ってしまった。

 今年の三月には酒に酔った日本人男性が、韓国の金浦空港で空港職員に暴行を振るい逮捕された。その男性が日本の厚生省の課長だったというのを聞いたときも、なんて恥ずかしい国なのだろうと申し訳なくなった。事件として報道されないだけで、日本人の刷り込まれた韓国差別からの横暴やトラブルは、いろいろと起きているのだろうと思う。それは韓国でも、日本国内でも…。

 ストレス源なってしまうのでうちにはテレビを置いていない。それでも外で、飲食店や病院の待合で目に入るときがある。ある時、バラエティ番組の中のお笑いコーナーで韓国語を非常に馬鹿にしたような表現を嘲笑するという場面を見た。ほんとうに心の底から日本社会の低俗さと現状を表していると感じ、自分が日本人であることが心底 恥ずかしくイヤになった。情けなさ過ぎる。街で修学旅行中の中学生たちが同じようにふざけあっているのを見たときも心が冷たく暗くなった。本屋は若い頃は楽しみに行く場所だったが、今はヘイトスピーチ本が溢れ帰りある程度の覚悟をもって行かなければならない場所になってしまった。

 日本人の自分でも日常の中でこれだけ気付くのに、日本に暮らしておられる韓国籍の方たち、在日朝鮮人の方たちはどのような抑圧の中を生きておられるのだろうか・・・。民族学校に通う子どもたちがヘイトクライム(憎悪犯罪)にいつまきこまれるかと。本当に極限の精神状況で暮らされているのだろう・・。民族学校の修学旅行生のおみやげを日本の空港で取りあげられてしまった事件も、忘れられない。学校生活の中で最も楽しかったであろう旅の時間が最後に台無しされ、心が深く傷つけられたこどもたち。差別と抑圧をまざまざと経験して、日本社会で暮らしていく自分の未来をどう感じていただろう…。非常に申し訳なく、こんな社会をどうにもできていない情けなさを感じる。

 自国がした侵略と植民地支配の事実を、戦争犯罪の事実を、どうしても見たくない日本社会。 韓国との国際関係の悪化は日本政府と日本社会が選択してきた行為の当然の帰結としか言いようがない。マスコミはあたかも韓国側に問題があるかのように報道しているのだろう。もうメディアではなくプロパガンダとしか言いようがない。唾棄すべきものだ。
 沖縄が差別されるのも、その事実をしっかりと体験し記憶していて、現状の矛盾を背負わされている当事者であり告発者だからだ。日本国家と日本社会にとってどこまでも都合が悪いから…。

 普通の人間関係だって、見たいものしか見たくない・見たくないものは見たくない、ばかりでは友として付き合ってもらえなくなる。ましてや、暴力を振るっておいてそのことを都合よく忘れたり、被害の訴えを嘲笑するばかりで、そんな人が裁かれないままであるということ。誰にも関わってもらえなくなることは明白だろう。戦争時、植民地支配で朝鮮半島の人たちに何をしてきたのか、それを自分たちがされたらどうなのか。「自分のしたくないことは人にするな」ということ幼稚園で教わったモラルすら身につけられない日本社会。自分がしたことにも責任を取らずに暴力を正当化する権力に重きを置く社会が、世の犯罪をどう取り扱えるのかと常々思う。(実際に社会の中でモラルハザードが起きていることを実感する。)
 
 経済も衰退し、その様は私のような庶民の生活のなかからも透けて見える。尻尾を振ってお金をばら撒いて権力者の売る武器に飛びついてご機嫌伺い。どこまでも軽んじられて、その惨めさも直視できないで、それでも貢ぎ服従し続ける。こんな首相をいつまで許容しなければならないのか。このまま世界に相手にされなくなるのだろうけれど、未来に破滅しかないのはごめんだ。
国政の愚行により社会が荒れ果て、戦争に雪崩れ込んでいった時代の再来を戦争を知る人は皆 肌で感じておられることだろう。
 お金と権力にものを言わせてやりたい放題してきた結果、国の基盤は傷つけられ、嘘と開き直りが前提になり下がった日本の国政。時間をかけた教育による愚民化政策で国内は騙せても、己を過信・妄信した振る舞いに世界は呆れ返っている。日本の政治家や社会の異常さが海外で報道されている様を知る度に、穴があったら入りたくなる。

 憲法は国家の権力から人間を守るために制定された。もう戦争を起こさない、すべての人に権利があると謳った日本の平和憲法を遺棄してしまえば、どうなるだろう。日本はあの第二次世界大戦を引き起こした自国の歴史を放棄し、確信的に開き直ったと世界に認知されるだろう。そうなったときに、どこの誰がこの国と付き合いたいと思うだろうか。今ある国際関係や、それによって支えられている日常が維持されると思っているならお門違いだ。「日韓関係の悪化」という言い回しによる責任放棄と同じで、日本政府と日本社会の墓穴ほりによる自滅でしかない。

 私は政治をきちんと任せられると思える人に政治家になってほしい。権力は玩具ではない。指先口先ひとつで人の人生や国税を左右できることに、責任でなく優越を感じるような者には政治は任せられない。人間として「恥を知らない」ということが、何よりも恥ずかしく愚かで害を及ぼすと感じるが、そういう人間にだけは政治権力を任せてはならない。日本の戦争の歴史はそれを教えているはずだ。政治を権力者の好き放題させてしまっている社会情勢をつくっているのは自分たちで、そこを変える力も本当にはあることを改めて知らなければならない。

 韓国の人たちは日本の植民地化と戦争の後遺症としての凄惨な軍事政権の苦しみの歴史から民主化を実現し、文在寅(ムン・ジェイン)氏を大統領として選び取った。(岩波書店から出ている 『運命―文在寅自伝』、とても重要かつ大切な一冊。まだの方は是非ご一読あれ。)
 今年の6月末に大阪であったG20のため来日した文大統領は、戦時下に日本に強制的に連行された―もしくは日本の植民地支配からどうしても海を渡らざるを得なかった在日の方たちを訪ねて、韓国の軍事政権化で「スパイ」容疑者として弾圧した歴史を国の代表として被害当事者や遺族に謝罪した。新聞で小さなその記事をみたときに、わたしの心は震えた。国の権力の中心にいる人が、国家の暴力に犠牲になった人に対して、自国の歴史的責任を引き受け頭を下げて謝罪したのだ。文大統領は日本政府の真逆、対極にあたる国の姿勢を示した。彼は朝鮮民主主義人民共和国に対しても、日本の植民地政策と戦争を発端に引き裂かれた朝鮮半島の和平のために働き続けている。この人を韓国の民衆が選んだ。

 沖縄の玉城デニー知事が昨日のフジロックのフェス関連イベントで演奏とスピーチをしたそうだ。
クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「雨を見たかい」と、ボブ・ディランの「見張りの塔からずっと」の2曲。音楽は人を感動させて、人を想像させ感じさせる力があると私も信じたい。
「雨を見たかい」は、ベトナム戦争の時代にアメリカで放送禁止歌だったそうだ。この歌の動画に、ベトナム戦争の映像があった。ここに映る米軍機はどこから飛び立ったものだろう。沖縄か、日本の今は自衛隊の基地となっている場所か…。

 8月8日で沖縄知事だった翁長雄志さんの一周忌になる。圧政を闘い倒れた彼の死を、日本社会は受けとめていない。知事選でも県民投票でも、沖縄の民意は幾度明示されても踏みにじられ海への埋め立てが進められている。沖縄の置かれている状況は以前厳しさを増しているが、それでも昨年秋の知事選で玉城デニー氏が勝利しなければ、権利主張の現在地は実現しなかっただろうと思う。沖縄の平和を望む人たちに送り出されたデニー知事は初心を貫き、基地問題や福祉の政策公約を実現するため奮闘している。けれど、日本政府の姿勢があまりにも酷く、米軍基地による事件や事故・環境破壊はものすごくて、デニー知事も倒れることになるのでないかと危惧する。新聞でデニー知事の写真を見るたびに、過労の色に前知事が痩せていった日々を思い出し心が苦しくなる。もうこれ以上の蹂躙は許されない。

 韓国のひとたち、沖縄のひとたちが決死の思いで選び出した首長。民の代表として、託された力を使おうとする政治家のあるべき姿。その姿を実現した人々・社会から、学び励まされ 諦めず私たちもしっかりと立たなければならない。
簡単に諦めてしまっては未来は失われる。散々、日本社会が恥ずかしいと書いたけれど、私は日本の社会でこれからも生きていくし、日本の社会の一員として自信を持って暮らせる日が来ることを望む。勘違いした自己正当化ではなくて、本物のあるべき誇りが持てる社会に生きたい。今の「日本人」であることをただ誇るような倒錯した自己肥大は、私が望む在り方の対極にある。




2019/07/26

2019年7月26日 相模原障害者殺傷事件から3年の夜に

2018/07/26 障害者殺傷事件から2年の今日に
http://inariyasauce.blog71.fc2.com/blog-date-201807.html

 上記の記事は、昨年の今日に書いたものです。
相模原 障害者殺傷事件から3年の今日、美しい夕焼けを見ながら殺された19名の方のことを想っていました。

生きて、夕焼けをもう見ることができないあなたに
二度とおいしい食事をできないあなたに
愛しい人と笑みを交わすことが二度とできなあなたに
もう出逢うことができないあなたたちに
私は誓います。

あなたたちを無残な死に追いやった優生思想を断固拒否し
あなたたちの死を簡単に忘却してしまえる無意識な命の選別に抗い続けることを。


 あなたをあなたの家族や暮らしから引き剥がし どこかへ閉じ込めた社会の構造
家族のみが苦労を強いられず 重度の障害があったとしても一人ひとりがそれぞれの地域で暮らせることが可能であれば
「障害者」と「健常者」の線引きがここまで露骨で具体的な社会でなければ
このような事件も起きなかったのではなかろうかと思わずにはいられません。

 優生思想と排外主義の嵐の前に、関係性を意図的に絶たれ 日常でフツウには出逢うことが難しかった私たちのこれまでがありました。分断は今も絶え間なく続き 私たちはお互いに隔離され隠され 出会いを奪われ続けています。
そのうちに無知から生じる畏れが、より一層つめたい距離を生み出して、差別は空気のように社会に蔓延し強まっています。子どもの時に分けられず一緒にいられれば私たちは自然と友となれたかもしれないのに。人間は本来ならその存在ひとつ、笑みひとつで、生きている意味と歓びをお互いに分かち合えるはずのものなのに。

 想像もつかない恐怖のなか命を奪われた、名前も知らない19名のあなたたちへ。
慟哭の三年を生き抜いた生存者と御遺族の皆様にも心からの哀悼の祈りを捧げつつ
今日の夜を過ごしています。




雨宮処凛さんが殺人を犯した植松氏のことを書いたり話したりしている記事を読みました。
参考記事:
(1)第462回:植松被告がキレた理由 「日本の借金」を、なぜあれほど憂えるのか。の巻(雨宮処凛)
(2)この国の不寛容の果てにー相模原事件と私たちの時代(1)神戸金史×雨宮処凛

 「自分が生きている価値がない」という やり場のない孤独や淋しさに苛まれ苦しみを抱えた植松氏の心に、差別の思想は入り込み、 暴力を正当化し凶事を行い、世の悪にそれを肯定された彼は そこにとうとう自分の居場所を見つけてしまったんだと記事を読んで感じました。国債のことも、障害児の母親への心配も、どこか真面目である彼の側面を感じさせないではなくて。厳しい介護労働の現場での行き詰まりの中で、いのちを奪うほうの考えへ心を奪われ流れていってしまった根源的な理由はどこにあるのかを、記事を読み、改めて考えています。

 人と大切にしあえる関係性に恵まれていない人は、大切な人を失った人の悲しみが想像し辛いと思います。幸福を味わったことがない人に、誰かの奪われた幸福への慟哭は同情よりも羨望や嫉妬の感情を引き起こすかもしれません。
彼が「役に立たない」と思い込んだ人が生きていることに怒りを感じたのは、彼自身が「自分を愛せない」「自分は役に立たない」というような やり場の無い孤独と自己否定が根底にあったのではないかと私は感じます。彼がどんなにそう感じなくても生きていることを「認められている」人への憎しみの裏には、そうした葛藤を持たず命をひたすら味わい生きる人たち、家族や職員に生活を支えられている人たちへの嫉妬も含まれていたのかもしれません。
「役に立つ人間になりたい」「自分を必要としてほしい、愛してほしい」という欲求が、優生思想と権力者への承認欲求に絡め取られ、19名の障害当事者を死に追いやっていったのではないか・・・・記事を読んでいて、そう感じました。

 虐めも、抑圧と分断の中で「人と繋がりたい」という欲求が歪んで表れたものと言えると私は考えています。ヘイトスピーチに流れてしまう人たちは、自分を否定せず誰かと共感し何か同じ目的を持ちたいという欲求があるのだろうと思います。人間は悲しいほどに関係性の中に生きることを求める性分を持ったいきものだと感じます。

 殺人を選んだ彼の責任は必ずあるし、それは許されることではありません。
殺された19名と殺人を肯定し続ける植松氏を並べてしまうのは暴論だけれど、しかし、誰が前者の命を奪い、誰が/何が後者の人間としての心を奪い凶事に駆り立てたのかを 考え続ければならないと思います。
間違っていることを正すために言葉を伝えることも大切だけれど、「人の命は誰しも大切だ」と言っても通じない。どうしてその人がここまでのことをしてしまえるようにまでなったのか。人間としての善き心、命の温かみある本質を失くしてしまうまでに何が起きていったのか。その背景、彼の歴史があるはずです。
暴力を「正義」として突き進んでいる背景にある孤独と枯渇、焦燥感は彼一人の問題ではないのではないのではないかと思います。

 「ワタシは関係ない」と意識から外していることにも気付かない人たちに届く言葉や行動を紡ぐためには、その一人一人のおかれている生きづらさ、背景を想うことも求められると思います。そこに届く言葉や行動を模索していかなければ、対立や憎しみは暴力を増徴させていくこともある・・・。人を非難するのではなく、糾弾するのではなく、人間として目指す方向を共に歩もうという愛を盛った呼びかけができるようになるにはどうしたらいいんだろうと思います。とても難しいことです・・・。

 敵は命を冒涜し 孤独につけこんで人間を支配し、意図的にコントロールしようとしている勢力、優生思想。これは「思想」とは呼べない、抑圧と暴力を横行させる概念です。
植松氏は「首相に褒められたくてやった」とも発言していたと思います。それについて首相はノーコメント、沈黙で肯定しました。 社会の中の障害者への差別と優生思想がヘイトクライム(憎悪犯罪)になったのが相模原事件だと思います。犯人の殺人に至る思想と行為を容認・賛同するようなネット上の発言も目立ちました。刑務所にいる彼が今も反省をしないでいることは、社会の中の空気をよく表していると思います。自民党議員からのLGBTQの人たちへの差別発言も確信犯で野放しにされてきていますが、その言葉には明確な障害者差別が含まれています。権力の中枢にいる人たちが優生思想を拡散し、強化し続けている社会であると言えると思います。

そうした流れ、情報のアンバランスさがあるにしても、それでもこの事件を簡単に忘れて通り過ぎてしまえる一人ひとりは、殺人こそ犯していなくても無意識かで死者の命を選別し差別していると言えると感じます。人の魂を殺し尊厳を簡単に踏みにじる<差別〉と誰もが無関係ではないということが、最低限の認識として必要と思います。
言葉を発さなくても人は目線ひとつ、ため息ひとつで人を失望させたり死に追いやることもできてしまう。「ワタシは差別はしていません」と断言できてしまう人ほど、自分の暴力性や過失に気付けません。そして、こう書きながら、私もそういうことをしてきたし、今もやってしまってるかもしれないと空恐ろしく思います。(自分が精神の当事者になれたことは苦しくはあるけど、生き直すために天から与えられた転機だったと思います。もちろん、当事者になっても自分も差別者の立場や責任からは免責されませんが。)

 私の中にもある優生的な思想、優劣、美醜、競争、支配・・・。自分の感覚や認識は、本当に自分が納得し選びとり決めているものだろうか。知らず知らずに支配され、思い込まされてきたことに気付くために何が必要か。忍び寄る支配から自由であるために学ぶこと、だれかと話したり、文章を書きながら違和感について考え、表明し続けることがとても大切だと感じます。

 行き詰った社会・世界の中で、孤独と枯渇を暴力や抑圧の温床にしないために、人と愛や共感をもった関係性を培っていけるように自分にできることを自然に、最大限しながら暮らしたいです。
もうこれ以上 まだ見ぬ誰かを失わないために 奪われないために。そして、自分自身を見失わないために。

一年前の今日は、2018年7月6日に引き続いてオウムの元信者たちの死刑がまた7名も執行された日でした。
殺された人たちのことを覚え、これからを歩みたいと思います。

2019/07/25

怒りの奥に

 
明日で相模原殺傷事件から3年。オウム真理教の連続死刑から1年。
腹の底から渦巻く怒りの奥に虚無的な悲しさと恐怖、不安がある。

わたしたちの社会は命に値札をつけているように思えてならない。社会的な優劣や各々の個人的評価に照らして、相手が生きる価値があるか否かのジャッジを表明し続けているように感じる。暴力的な、排他的なもののほうが大きな声として聞こえる。

 人の世が自暴自棄になり殺人を犯した人に「一人で死ね」と言う。理不尽な殺人・死に対し、その怒りが正当なものであるにしても、その一人を追い込んだのは誰であり何なのかについては考え続けなければならないと思う。思考放棄した社会の果てで、これ以上悪いことが起きないようにするために。もうこれ以上、だれかが同じ道をいかないですむように。生活保護バッシングを例に出すまでもなく、誰かを追い詰める言動は自分自身も追い込むことも忘れてはならない。

 そうかと思うと、自分の責任を問われない場合のみ誰かの不幸に目を留め、いともたやすく同情する。それは感動ポルノ的な意味合いを持つ感情消費ではないのか?そう自問自答しなければならない場合もあるのではないかと思う。
人生を奪われた人たち、奪われている人たちを都合よく自分の為に使ってしまわないように。よく目にする耳にする事件以外にも社会の現実と不平等を覚え、都合よく忘れている人たちのことを思い起こさなければ。
過去であれ現在であれ、たった一度の人生を 失わされた人に対して、真なる祈りを抱けるように暮らしたいと願う。

 感情を持つこと、共感を抱くことは人間が人間である大きな要素だ。日本は感情を表明しにくい抑圧さと、同調圧力が強い社会だと思う。
己の感情を何かや誰かに奪わせないために、知らず知らずのうちに操作されている自分に気付いていけるように学ぶ必要がある。自分のうちに生じる個人的な感情を誘発する情報のアンバランスさ(目立って主張されるものと隠されるもの)その背景を意識しなければ、ひとりひとりの人間としての善い感情も国家や権力に利用される装置として発動しうると思う。周到にすり込まれた「愛国心」が戦争の基盤になってしまったように。

 時代の空気はマスコミによって、教育によって、世間体によって、用意周到につくられている。頼り頼られる関係性も希薄な社会で、「迷惑かけるな」って言われ続けてそれを内面化して、自死大国日本になった。権力者がつくった空気を読んで合わせ続けてきたからこんなに権利が無い社会になってきたんだし。横行するいじめやハラスメント、世間話のなかの差別に気付かないフリしてやり過ごすときに、自分への自尊心も信頼も削られる。良心的な人は病んで、権力を望む人はいよいよ鈍感になって。どこまで続くんだ。

 この社会のおかしさに組み込まれない為、自分自身の感覚を吟味し、よいところは守りつつ育てたい。信頼できる人たちと関わりながら、感覚を研ぎ、深めていく必要があると感じる。生き抜いていくために、自分の中心にあるものを掻っ攫われないように。


茨木のり子さんの詩にあったな。「自分の感受性くらい自分で守れ ばかものよ」って。



2019/07/16

一年間に起きたことへの怒りと、今回の選挙について

一年前2018年7月の当ブログ記事より
2018/07/06
死刑執行の日に ―死刑廃止と、アベ政権の終焉と、ジャーナリスト安田純平氏の解放への日本政府の尽力、を強く求める
2018/07/07 七人の命を奪い、死刑は執行された。
2018/07/08 どうしようもないときに
2018/07/11 大水害の最中に酒盛りをしていたアベ政権(自民党)。許せない。
首相を始め、アベ政権の中枢にいるやつらを引き降ろさないと、この国の住民の命を守ろうとする姿勢を政府が持つことはないだろう。多くの人が大洪水で苦しんでいるのに、その最中にも大宴会して、外遊したいがためになんの決断もしないで家にいて。政府としてやるべきことをやらない以上に、こんなひどい態度をしていいわけない。すぐに動いていれば、助かった人だっていたかもしれない。沈まないでいい家だって、田畑だってあったかもしれないじゃないか!

絶対に絶対に、許してはいけない。体中に怒りが渦巻く。
私は、現政権ののさばりをこれ以上 許せません。



  昨年の7月6日に東日本集中豪雨の災害被害があり、その晩 首相を筆頭に自民党の連中は酒盛りをやっていました。酒宴の席にいたまま、酔っ払ったまま「災害対策をした」と言うような現政権が今もそのままのさばっている、いや、のさばらせている現状が本当に情けない。腹立たしいです。翌7月7日 朝から死刑が予告され、オウム真理教の幹部たちがその日のうちに7名死刑にされました。彼らを殺した人たちは前夜祭として酒盛りをしていたのでしょうか。
ワイドショーでは死刑が執行されたらボードの人物写真に〔死刑〕とラベルを貼ったとか。権力者の都合で平然と公開処刑が行われ、それに対してやり過ごせる社会に暮らしている現実に眩暈がします。平和とは、権利とはいったいなんでしょうか。

 
 社会に暮らす人たちがもっと安心して暮らせる社会にする枠組みを運営する責務が政治家にはあるはずです。
「お金がなければ先がない、でも抜け出す方法がない」という脅迫的な社会の中でみんな追い詰められています。「フツウの暮らしなんて夢のまた夢・・・」みたいな今の社会、絶対おかしい。
不正も虚偽もやり放題で恥じもせず、利権のために人間を見殺しにし、海を潰し、ひたすら戦争を起こそうとする自民党・公明党の現政権を許しません。人間の暮らしを保障するために集められた税金は、戦争ごっこやオトモダチの人気取りのために使われるためのものではありません。住民から国・行政に委託されたものを、民主主義国家の最低限のルールも守れない人たちに預けられない。アベ首相は権力を持ってはならない人間です。戦争をしたくてしょうがないこの人は、社会福祉にも経済破綻にも目もくれずアメリカから巨額の戦闘機を買って相手をしてもらおうと躍起です。
こんな情けない状況をこのままにして、私は自分の次の世代に戦争を体験させたくありません。人権がない時代はイヤです。イヤっていうか人間として生きていくことができなくなる。


 日本が始めたアジア・太平洋戦争では約2000万の人が殺され、数え切れない人々の人生と財産・社会・文化が破壊されました。日本の人も300万人の人が死にました。過去の戦争の後始末も何ひとつ終わっていないのに、事実すら歪めてこのまま憲法を捨て去ってしまうのでしょうか。国家の暴力を繰り返さないために、戦争をしてしまう国家という巨悪を縛るための憲法を先人たちは勝ち取り、後退はしながらもなんとか守ってきてくれました。けれど、何年も何年もきて、ついにここまで来てしまった。コイズミ政権から20年、「教育の憲法」といわれた教育基本法が第一次アベ内閣に改悪され13年。いま、憲法は風前の灯です。
 自民党の憲法草案をご覧になった方は分かると思いますが、あの権力者たちは人間の権利も自由も平和も、人の尊厳をなにもかも奪い闇に葬ろうとしています。私たちの人間として守られるべき権利はこのまま奪われていくのでしょうか。そこには幸福な人生も生活もありません。未来を生きる人たちの希望は現時点で潰えてしまうのでしょうか。そんなのは恥ずかしすぎて、過去の人にも未来の人にも私は顔向けできません。

 環境も社会も破綻寸前で、すべてが薄氷の上です。飢えの中、戦火の中、「こんなはずじゃなかった」と死に際に思ってもそのときには遅い。これ以上アベ政権の存続させることは、絶望と自滅の道に他なりません。取り返しが付かなくなる前に、諦めてしまわずに、自分の望む未来を選び取らなければなりません。


 投票権のある方、日曜日までに必ず選挙には行きましょう。
たかが一票、されど一票。この一票のためにどれだけの血が流れ、叫びがあったか。選挙が不平等なシステムであることは百も承知ですが、投票の権利を持っていることは世界的にも社会的にも歴史的にも特権です。その権利がすべての人に実現するために、投票権を持っている人間は投票する責任があります。命や権利を剥奪する戦争を肯定する連中に投票することは、今を生きる人だけでなく、未来を生きる人たちの人間として暮らせる日々を奪うことになってしまいます。

 まずは自分の元気と真っ当さを取り戻し、保つところから。非常時にこそ、何がエンパワメントに繋がるのかを一人ひとりが考えて行動しなければ。身内にストレスぶつけてパワーレスしあってる暇なんてありません。それぞれの場所、それぞれの暮らしの中で心の火を絶やさないように歩みたい。人の間に光と熱のある世界を生きたいと願います。




嵐は、たいまつを消すことができる。
だが、たいまつの火を 炎々と燃えるのも嵐の時だ。 


                                    -1976,10 むのたけじ


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2019/07/06

劇団ドラマティックゆうや「もしも、ドラムが叩けたら」 紹介

劇団ドラマティックゆうや 「もしも、ドラムが叩けたら」(27分)
という舞台動画がすごい好きで4回くらい観ました。めっちゃいいです。
ご興味のある方、お時間ある方は是非。
https://qetic.jp/interview/dramaticyuya-190524/317285/

ライブハウスの音楽イベントでいきなり二人芝居が始まるっていうのも、ライブハウスに来てるお客さんがエキストラ参加的設定も楽しい。やっぱり芝居はええなーー