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2018/10/26

ジャーナリスト安田純平さんの解放 - 再燃する「自己責任」論を許さない

 安田さんの命が助かった・・・。助かったことは本当によかった。けれど、生き残ったその後の人生の中での恐怖の揺り返しの過酷さは想像すらできない。助かった彼の命や生活を危険に曝すバッシングや、本人や家族を追い詰めるような報道の姿勢は決して許さない。奇跡的に助かったいのちを、更に危うくさせるつもりか。正気ではない。

「危険なところに行った本人が悪い」という自己責任論の考え方そのものが、この世界に危険な場所や状況を生み出している。

 2003年3月20日、大量破壊兵器があるという嘘の情報によりアメリカはイラクを攻撃し戦争が始まった。自衛隊は武器を持ち、アメリカが始めた侵略戦争を「支援」するために派兵された。それまで「ヒロシマ・ナガサキを経験させられたのに経済成長で立ち直り、戦争を放棄した日本」という親日感情があった中東で、日本人の拉致や殺害が起きるようになったのは何故か。
ジャーナリスト綿井健陽さんのドキュメンタリー映画 『Little Birds(リトルバーズ)』のワンシーンを思い起こす。

 前日は明るいマーケットだったそこに、銃弾に倒れた子供がいる。鍵をかけられたはずの店が崩れている。本当にここが、人々の笑顔が溢れていたマーケットだろうか。空爆が始まった直後、ここで一人の男性のインタビューが入る。「ブッシュと手を組んでいるお前ら日本人を絶対に許さない。お前ら日本はこれから百年間覚えておけ!覚えていろよ!!」
彼は激怒しながら砂嵐の街角に消えていった。何度も振りかえり、指差し叫びながら。

2005年時の感想からhttp://inariyasauce.blog71.fc2.com/blog-entry-541.html



そこはどうして「危険な場所」となったのか、を一切考えないのは限りなく愚かで恥ずべきことだ。

 自分は無関係だと思い込むことにより、自分たちの社会の現在地の異常さや、未来に起き得るだろう惨状から目を塞ごうとする。
知ろうとしないこと、知らないことが、圧倒的な暴力の世界の構造をさらに強固なものにして、継続させている。生み出され続ける悲劇が、憎悪と暴力を再生産し続ける。これから、自分たちもそこに巻き込まれること、いやもう巻き込まれていることは明白だというのに、いつまでもいつまでも気付こうとはしない。


 ジャーナリストたちは、警告する。
私たちは誰かを見捨てることによって、自分たちの尊厳や権利を手放していると。この惨状を看過するなら破滅がまっていると。
ジャーナリストは、現代の預言者とも言えると私は感じる。


 カエルだって、入っていた水がお湯になったら危機を感じて飛び出す。茹で蛙なんて実際には存在しない。この日本社会を生きる人間たちは蛙より劣るのだろうか。炭鉱のカナリアを「うるさい」と絞め殺して、その後はたして無事に洞穴から出ることが叶うというのか。



【記事】
安田純平さん解放の報。本人を追い詰めるあらゆる対応を控え、心的外傷の治療を最優先すべき
伊藤和子 | 弁護士、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ事務局長

10/24(水) 12:50
https://news.yahoo.co.jp/byline/itokazuko/20181024-00101617/

【記事】
「安田純平さんが帰ってきた -危険地を敬遠する組織メディアの記者たち。危険地取材の意義を改めて考えたい」
石川智也 朝日新聞記者

2018年10月26日(金) 
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2018102600001.html

2018/10/24

米国で放送された「慰安婦」問題の特集番組        The Apology(謝罪)

 強いられた「恥辱」により黙らせてきた罪
無知蒙昧で悔い改めないことにより語らせ続けてきた罪
おばあさんたち、ごめんなさい。こんな日本の政府と社会で、本当にごめんなさい。なにも変えられないままな私でごめんなさい。
でも、諦めません。頂いたものを忘れません。日常に流されても、無力を思い知らされても、なんの足しにもなれなくても、決して決して諦めません。

 「オレの心は負けてねぇから!」 宋神道(ソン・シンド)さんの声が胸に響きます。私の心も、負けない。負けません。
女性や子ども、(このカテゴライズに当てはまらなくても)弱者の性を蹂躪して利用する連中に、決して屈さないで生きていきたいです。



【動画】10月22日に米国で放送された「慰安婦」問題の映像

The Apology
The Apology follows three former “comfort women” who were among the 200,000 girls and young women kidnapped and forced into military sexual slavery by the Imperial Japanese Army during World War II. Seventy years after their imprisonment, the survivors give their first-hand accounts of the truth for the record, seeking apology and the hope that this horrific chapter of history not be forgotten.

http://www.pbs.org/pov/theapology/video-theapology/


 この1時間23分の映像は、10月22日に米国で放送された旧日本軍戦時性暴力制度「慰安婦」問題の特集番組です。 第二次世界大戦中に日本の軍隊によって拉致され、強制的に軍の性奴隷にされた20万人の少女と若い女性たちのうちの3人の、元の「慰安婦」制度を体験させられた生存者の方たちが、筆舌には尽くせない体験から70年経った後の証言の記録映像です。

 私は日本語以外は全くできないので、字幕の意味がほとんど理解できなかったけど、ハルモニ、大娘(ダーニャン)、ロラたちの映像を見せてもらいました。
(※おばあさん:ハルモニ/朝鮮語、大娘(ダーニャン)/中国語、ロラ/タガログ語(フィリピン))

 私が若き日に出逢えた韓国、フィリピン、台湾の(阿媽・アマー)おばあさんたちの声や笑み、涙や歌声、一緒に踊ったこと、その体験をされたお身体をマッサージさせて頂いた時の温みを思い出しながら。映画や本で出逢った中国やインドネシアのおばあさんたちのことを思い出しながら。
 
 2005年、ピラール・フィリアスさんの前で、「日本政府が謝るまで、私は決して諦めません」とスピーチで約束したのに、ピラールさんも、出逢えたほとんどの生存された証言者が亡くなってしまった現在に。嗚咽しながら、悲しいほどに美しい映像を見ていました。
生存者が長く重すぎる沈黙を破り、命の限りに訴えたのに、日本はそれを無視し、確信的に歴史の真実を隠蔽し、また戦争をやろうとしています(もう参加しているとも言える)。

 今、自分の生に許された「幸福」に感動するたびに、被害にあわれたおばあさんたちや、その後の人生もなく殺された女性たちへの申し訳なさに胸に痛みを感じます。戦争が起きていても起きていなくても、この社会/世界の日常に満ち満ちた性暴力の嵐。この地球上に何十億人もいる人たちのなかで、どれだけの人が本当に自分の心身を尊重し合える関係の中で、自分を大切に感じられる暮らしを実現しているでしょうか。

 私が若かった当時も日本社会は酷かった。けれど、十年以上の歳月が過ぎ、社会の無恥で暴力的な流れは加速し続け、あの頃と比較にならないほど悪い状況になった。日本政府の蛮行を例に出すまでもなく。糸が切れるように奈落へ転がり続けるこの社会の流れを止められないできた自分に悔しさと無力さと申し訳なさを覚えます。私自身、自分が生きぬくのに精一杯で何もできないできてしまった。

 でも、諦めたわけじゃない。
絶対に、諦めないでいるための心を、おばあさんたちは私に与えて下さいました。

 大学生4年生の冬、初めて日本軍性奴隷制度についての証言を李容珠(イ・ヨンス)さんの証言を集会で聞きました。耳を塞ぎたくなる恐ろしい体験が語られ、それでも「この人は実際にそれを十代で体験し、生き抜いてこられたのだから、私は聞くくらい耐えなければ」と歯を食いしばって聞きました。
 あなた方にこの世界を生きる上で描けたはずの夢や希望、人間として体験できる幸福を、すべて奪い苦しめ続けた日本の起こした戦争の加害を決して許しません。おばあさんたちの証言は、「いついかなる時も(戦争であっても、社会が平和に見えるときでも)、女性や子ども、弱い立場の男性や、性別に違和感のある人も、性別を選ばない人も、全ての人の誰にも尊厳を蹂躪する性暴力を許してはならない」と明確に言いきれる力を私に与えて下さいました。

 私自身、証言を聴き、始めは分からなかったけれど、自分の身に起きたことについて振り返り考えることが実現してきたと思います。私は、彼女たちが幼き日や若き日に強いられた事実について知り学ぶうちに、ずっと蓋をしていた自分自身の体験した子どもの頃の体験について考え始めることができました。若き日にも様々な形での体験がありました。若くなくなり、安全な場所にきて日常の中でやっと少しずつ自覚できてくるような体験。それは、自分で自覚していたものよりもずっと深い傷でした。性暴力は、そういう耐え難い重たさを持ったものだと、今になり実感しています。自分の過去に起きた出来事の、その後の人生への余波の自覚から鑑みるとき、日本軍によって女性たちに起きたこと(人類史上で最も愚かで罪深い制度の犠牲であった悲惨な体験の歴史)の、果てしない闇、筆舌にはしえない苦しみと失われた人生を、想像することなど到底できないことを改めて知る思いです。

 言語的に壁があっても、おばあさんたちの暮らしのワンシーンを切り取ったこの美しい映像を一人でも見てほしいと願い、紹介します。目線や息遣いを映像で見ることで、感じられるものが必ずあるはずです。
同じ女性であること以前に、裁判所に入る車椅子のおばあさんに、そのまま放映すらされないような罵倒を投げかける「日本人」の側の社会の一人として。ありとあらゆる形に姿を変えて性奴隷制度を続けているこの日本社会。近代日本国家の愚かさを凝縮したアベ政権が繰り返そうとしている暴力の最たる戦争と再軍国化を、なんとしてでも食い止めたいと心から思います。がんばります。


2018/10/22

ミヒャエル・エンデ 『モモ』からのワンシーン

 数日前から、数年ぶりに ミヒャエル・エンデの物語り 『モモ』を味わっている。

 下記の引用箇所は、主人公の女の子 モモが時間泥棒である灰色の男たちの働きで、友人たちを奪われ、その上 見張られ、圧倒的な孤独に置かれているシーン。



 毎日一回、モモはニノのところに食事に行きました。でも話をすることは、さいしょのときとおなじようにはほとんどできません。ニノはあいもかわらずいつもいそがしく、ぜんぜんひまがないのです。
 一週間がひと月になり、また数か月になりました。でもモモはまだひとりぼっちです。
 たった一回ですが、モモはある夕方、橋のらんかんに腰かけているとき、とおくの別の橋の上に、背をまるめた小がらな人のすがたを見かけました。その人は、まるでいのちがけで掃いているというようすで、ほうきをふりまわしていました。ベッポにちがいないと思ったモモは大声で呼びかけて手をふりましたが、あいてはちょっとの間も手をやすめません。モモはかけだしました。でもその橋についたときには、もうどこにもそのすがたはありませんでした。
 「きっとベッポじゃなかったんだ。」モモは自分をなぐさめました。「そうよ、ベッポじゃないにきまってる。ベッポの掃き方なら、あたし知ってるもの。」
 出かけずに円形劇場のあとのうちにいる日もありました。ひょっとしたらベッポが、モモがもどったかどうかを見にくるかもしれない、きゅうにそんな気がしたからです。もし出かけていれば、まだゆくえ知れずだと思われるにきまっています。でも、そうしていてもやはりおなじ心配が心をくるしめます。ベッポはるすのあいだにきたのではないか、一週間まえか、もしかすると、きのうにも!
こうしてモモは待ちましたが、もちろんむだでした。そのうちにとうとう、へやの壁に大きな字で、「かえっています」と書いておくことにしました。けれどいつになってもこれを見たひとは、モモのほかにはいませんでした。
 でもただひとつだけ、このあいだじゅうモモからはなれないものがありました。マイスター・ホラのところですごしたときの記憶、あの花と音楽のあざやかな記憶です。目をとじて、じぶんの心にじっと耳をすましさえすれば、あの花々のかがやくばかりにうつくしい色が目にうかび、あのたくさんの声の音楽が聞こえてきます。そしてさいしょの日とおなじように、そのことばをじぶんで口ずさみ、メロディーをうたうことができました。とはいえ、そのことばもメロディーも、日がたつごとにたえず新しく変わり、けっしておなじままではありません。
 モモはときどき一日じゅうひとりで石段にすわって、そのことばを語り、うたいました。聞いてくれるのは、木と、鳥と、廃墟の石ばかりです。
 孤独というものには、いろいろあります。でもモモのあじわっている孤独は、おそらくはごくわずかな人しか知らない孤独、ましてこれほどのはげしさをもってのしかかってくる孤独は、ほとんどだれひとり知らないでしょう。
 モモはまるで、はかり知れないほど宝のつまったほら穴にとじこめられているような気がしました。しかもその財宝はどんどんふえつづけ、いまにも息ができなくなりそうなのです。出口はありません!だれも助けに入ってくることはできず、じぶんが中にいることを外に知らせるすべもありません。
それほどふかく、モモは時間の山にうずもれてしまったのです。
 ときには、あの音楽を聞かず、あの色を見なければよかったと思うことさえありました。それでも、もしこの記憶を消し去ってしまおうと言われたとしたら、どんな代償をもらおうと、やはりいやだとこたえたことでしょう。たとえその記憶の重みにおしひしがれて、死ななければならないとしてもです。なぜなら、いまモモが身をもって知ったこと――それは、もしほかの人びととわかちあえるのでなければ、それをもっているがために破滅してしまうような、そういう富があるということだったからです。――

(ミヒャエル・エンデ 『モモ』〔大島かおり訳/2005年版、岩波少年文庫〕
 16章「ゆたかさのなかの苦しみ」p315-317)


・・・・・・・・・






 文学、すごいな・・・って。
心が震えて、身体にあらわれる。涙が自然と溢れたり、手が熱くなったり。こんなにも慰められる。

長くも短くもない自分のこれまでの人生の中で、最も痛烈な孤独を感じていたあの膨大な時間の期間を思い出す。

 特に子どもにむけた名作は児童書も絵本も、大人の一人である作家が、世界の美しさや希望や可能性、人間の善さ、面白さ、真理を 次世代に手渡す為のものとして選ばれた言葉から紡がれ、織りあげられた物語りなのだと感じる。

 不条理と不平等のこの星の上で、母語の読み書きも、本を読む自由も時間も、与えられている自分の現在地点。
ありがとうございますというお礼と、申し訳ない・ごめんなさいというお詫びと、これからの自分で意味を持たせられる日にいつか行き着きたいという願いと決意がないまぜになっているような胸のうち。

 ほんとうの善きことばは生き残ったわたしたちをつなぐ光、なんだ。
そういうことばを本当に選べるようになるためにも、あの孤独を時折おもいだす必要が私にはあるんだろう。


時間の花2
時間の花

 昔に撮らせてもらった蓮の花。やっぱり時間の花みたい。


 昔、『モモ』のはじめからおわりまでの読み聞かせを一人の人にずっと聴いてもらえたことがあって、その時ほんとうに楽しかった。そういう体験と歓びの記憶がある。
いつかまたやれたらと願う。 もし、できるときがあれば、未来に大人として生きねばならない、今を生きる大切な子どもたちに捧げたい。そして、『星の王子様』になっちゃうけど、子どもだったころのあるすべての人のためにも・・・。

今夜は最後まで読めるかもしれない。
穏やかに楽しみながらも、心して 大切に読めたらいいな。

神様、私と皆様の命をありがとうございます。 この世界を、全てのいのちの営みを創り与えて下さったことを、こころより感謝します。
読んでくださって、ありがとう。
風邪をひかないように気をつけて。 おやすみなさい。


2018/10/14

【詩】  ことば

                                 稲荷明古

飽きもせず殺し続ける圧倒的な世界に
わたしたちは感性ひとつで向かい立とうとする

ことばは天から与えられた人間をつなぐ光

詩を生きるわたしたちのことばは いのちの流れを汲むものでなくてはならない




確かに忘れていることがある

小さな哲学者たちがこれまでどれほど簡単に空高く旅立っていかねばならなかったか
慟哭の人生を歩んでこられた先達たちが羽虫のように殺され
子を守ろうとする大人たちの決意が打ち砕かれ続けてきたか

そして
それが今もなお終わりなく繰り拡げられているこの地上の現実を


先の大戦すら まともに振り返ることも出来ず
国は正当化という嘘を塗りたくり重ねる

下っていく急な坂道は既に奈落に近い現在地
けれど平穏に見えてしまう 今日という日


身を任せるな
立て

誰に知られずとも 声をあげずとも
立て

歯を食いしばり立ち上がり
無残な世界をやはり変えられない無力を憶え
それでも美しいこの世界を歓び讃えよう

暮らしのなか紡がれた思想は ことばとなり放たれる

ことばは 
ほんとうの善きことばは
生き残ったあなたと私をつなぐ光





                  (2016年10月22日)
2018/10/14

【詩】 幸福な暮らし

                                                                   稲荷明古

だれかの苦しみを 自分の幸福の実感のための引き合いにだすのはいやだ

けれど
苦しい思いをしている人たちのことを忘れきったり
もしくは知らないままに
幸せをただ味わうのも なにかが違うと感じる

自分が持っていて当たり前だと思っているものを失った時
人は「不幸になった」と感じるのかもしれない
しかし 実際のところ「当たり前」なんてものは存在しない

新聞の投書欄に小学生の子が戦争のことを学んだという文章の書き出しに
「いまのすべてがきせきです」とあった
心から そうだと感じた


何気なく過ぎる日々に幸せを感じることを許された暮らしができる自分の立ち位置

恵みへの感謝と懺悔

子ども時代に受けるべき歓びのすべてを奪われても日々を過ごさざるを得ない少女たち
夢のカケラさえ抱けないあなたは 必死で親の代わりに弟妹を育てていた
 -私はあなたに何も出来ない 

若い頃に訪ねた廃棄物に囲まれた村で やっと笑みを返してくれた少女が その瞬間ムチで打たれ追い立てられたのを見た
 -この世界の不平等さを肌に刻んだ あの瞬間を忘れられない


どうして30年ちかく子どもを檻に閉じ込め虐待し続けてきた父親が 実質 無罪なような判決になるのだろう
 -障害がある子どもだったから? 人間として認めないままどこまでいくの?

どうして小さな女の子がやっと覚えた字で「助けてください」と懇願する文章を残して死んでいかねばならなかったのだろう
 -彼女は愛を結ぶ為に生まれてきたのに
 いつか誰かの心にやさしく触れる手紙や詩を書いただろうに


故郷を追われ生きるために今にも沈みそうな小さな船で海へ出る人々
 -船の底で圧死したあなたの姿が写された一枚の写真

働く為に家族と離れ 遠いこの国で労働する人たちの上手な日本語
 -入管に囚われまともな医療も食事もなく 虐待され続けている人たち

閉じ込められた女たちの慟哭は 時代が移り変わっても ずっとずっと繰り返され続けている
想像を絶する蹂躙

一歩でも違えばそこにいただろう苦界を想う

痛み苦しみから逃れ得ない人生を だれかが必死で過ごしている今

戦火に追われた後も 「死んだほうがマシだった」という苦しみのなかを
「もう二度と戦争はさせない」と歯を食いしばって生きぬいてきた人たちの人生が繋いでくれた現在地
私は家の中で温かい飲み物をのみながら過ごせる




何故 私はこの今に辿り着けたのだろう 
ひたすら生きることが辛かったあの時をぬけて

責め立てることなく ただ静かに その問いは私に向けられている

花々が
木が
風に揺れ なにかを伝えようとしている

真っ白い大きな雲と 全ての人の頭上にあるはずの青い空が
時代を生き抜いてきた方たちの笑顔が
生まれてきたひとの小さな身体の汗ばむような温みが
もう亡くなった方の体験が記された文面が

いつも柔らかく笑っている あの人の厳しい目線の先にあるものが


私を問う

辿り着けない/辿り着けなかった人人の声なき叫びにどう応答するのか と




真の幸福とは何だろう


目を背ければ知らないで忘れてしまえる己の立場
誰かを虐げた上での「幸福」な生活のなか
忘れがちでも 確かに在り続ける
今を幸せに感じることへの 申し訳なさ 恥ずかしさ 後ろめたさ

-ごめんね
 ごめんなさい
 あなたはその暮らしを強いられているのに
 あなたは幸せに歳を重ねていけるはずだったのに
 わたしは今こうして暮らしているのに



歴史の通過点である自分
ひとりぶんの人生

世界の全てを救うことはできなくても
誰一人として 助けだすことができないにしても

私が今 幸福を覚えることを許されたのは
誰か他の一人の人生への想像力を根底から持てるようになる為に 必要な経験であるからなのではないか



神が本来 人間に望まれた幸福をあきらめず
ちいさく見える大いなる奇跡を求め 味わい
自分や周りの人だけではなく いつか誰もが幸福に暮らせる世界を希求する
そのための幸福の体験


すべての隣人の幸福を目指す力になる幸福こそ 幸福であると信じる



私に与えられたすべてを 与えて下さった方が喜ばれる いのちのあるべき美しさに連なれるよう
生きてきた先人たちの魂が 今を生きるすべての人たちと共に笑ってもらえる日が来るよう


享受し
進もう
カタツムリの速さで

あきらめず 投げ出さず
閉じないで 繋がって

暮らしを紡いで



  



        2018年7月1日 記
2018/10/06

人は、音楽や歌そのものになれる。 -菅原小春さんの踊り

 トーチWebに掲載されてたシバタヒカリさんのショートストーリー漫画(無料)がしみじみ良かったので、以前から何回か読ませて頂いてきました。最近、ふとシバタさんのツイッターを覗いてみたら菅原小春さん(Koharu Sugawara)さんという踊り手が紹介されており、遅ればせながらこの方の存在を知ることができました。ダブルで感謝でした。

 菅原小春さん(Koharu Sugawara)さん、画面越しに観ているだけで、感情が湧き上がって解放されていくような気がして・・・。何かがチャージされて、心の底から生きる気力が湧いてくるような・・・。人間の感情の解放、自由自在な姿を目にして自分が変えられていくような気がする・・・。

youtubeから、動画を5本セレクトしました。お時間ある方は是非ご堪能ください。












 もっと素直に、もっと自由に感じていいよ!という呼びかけを、彼女の表現から感じました。
「やっぱり、性別差は色々と関係ないわ!」って再確認しました。人間の身体能力の高さに驚くとともに、自分の人生の喜怒哀楽をこんなにも表現してくれるなんて、人間はなんて力を持っているんだろうと。いや、ほんとうに人間すっげーー!って、改めて痛烈に感じました。戦争しとる場合じゃないし、子ども見殺しにしてる場合か!って。

 本来の(本物の)の音楽や表現は、愛と自由と歓びに満ち満ちており、人間同士の共感をベースに人びとの魂の解放を実現しますね。真の芸術は人類の未来に善きものを遺すためのものだと感じます。
 ほんとうに、「感動を受けることで自分を変え始めることができるんだ」と彼女のダンスを観ながら、しみじみ感じました。

 安室ちゃんの引退のときも感じたけど、一人の存在が輝き、社会にそれが浸透していくとき、その生はもはや一人のうちには留まりません。多くの人が一人の行動や表現活動に心動かされて、変われたり、救われることもある。本当にもの凄いことで、素晴らしい希望を感じます。

菅原小春さんがずっと無事で今後も世界でご活躍ができますように、新参ファンの一人としてお祈りしています。

◎他のダンサーの踊りも凄すぎます!お時間と観る体力ある方は、こちらを。
アーバンダンスキャンプ(オフィシャル) NEW VIDEO123本の動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PLC2AFF34387CAF459


こういう芸術表現に出逢えると、今を生きていられる幸せを実感します。
2018/10/05

沖縄からの希望の歌



合唱曲 『HEIWAの鐘』  作詞作曲/中里幸広 編曲/白石哲也

よみがえれ あの時代へ
武器を持たぬことを伝えた
先人たちの声を
永遠に語り継ぐのさ
脅かすことでしか 守ることができないと
くり返す戦争(つみ) 忘れゆく 愚かな権力(ちから)よ
いつか(自由な空が)
虹かかる(翼ひろげゆく)
風に(高く大きな) 幸せ贈るだろう
ぼくらの生まれたこの地球(ほし)に
奇跡を起こしてみないか
拳をひろげてつなぎゆく
心はひとつになれるさ
平和の鐘は 君の胸に響くよ


唄い踊り助け合った
振り向かず 笑い続けた
誇る島の魂を 永遠に守り抜くのさ
銃声が鳴り響き 海や大地が砕け散る
正義の叫び こだまする フェンスを飛び越えて
君が(一人立てば)
変わるのさ(明日へ輝いて)
ずっと(未来の夢を)ここに残してゆこう
ぼくらの生まれたこの地球(ほし)に
奇跡を起こしてみないか
拳をひろげてつなぎゆく
心はひとつになれるさ
平和の鐘は 君の胸に響くよ

※(くりかえし)
君が(一人立てば)
変わるのさ(明日へ輝いて)
ずっと(未来の夢を)ここに残してゆこう
ぼくらの生まれたこの地球(ほし)に
奇跡を起こしてみないか
拳をひろげてつなぎゆく
心はひとつになれるさ
平和の鐘は 君の胸に響くよ

平和の鐘は君の胸に響くよ
2018/10/04

所感 ― 2018年10月4日 玉城デニー沖縄知事就任の日に

 

 今日、沖縄の知事に玉城デニーさんが就任されました。選挙は多数決ではないから、勝った側は選挙に負けてしまった側の候補者に入れた人たちの願いもくみ取り実現していかねばならないものであることを、改めてこの間 考えることが出来ました。また、沖縄の知事選については、ヤマトンチュはいくら基地反対で頑張っている立場であったとしても、国側の立場の候補者を貶めたり、その候補に入れた人たちを揶揄したりすることは、ほんとうに許されないんだと改めて感じるものがありました。
 沖縄社会に差別という暴力を駆使し、経済基盤の調整を阻害して基地に依存せざるを得ない状況を生み出し、人々に分断を強いてきたのがヤマトの社会であることは言うまでもありません。その加害側の社会に属している人間が、その責任を忘れてしまうと、こうした更なる分断や無理解による≪立場性から生じる暴力≫が更なる差別として起きてしまうのだということも、ツイッターの個人の発信などを目にしつつ考えざるを得ませんでした。

 もちろん、私自身も例外ではありません。改めて自分自身の思考回路や言動も含めて、恥ずかしくなるようなものの考えや言動を反省せざるを得ませんでした。国家権力の恥ずべき分断政策や勝ち負けの概念に、知らずしらずのうちに己も巻き込まれていることが多々あります。細心の注意を払い、自分自身を点検しなければならないことを強く感じます。


 沖縄知事選のために全国から駆けつけた人たちの熱い想いと、ご活躍はすごかったのだろうと想像します。
でも、どんなに平和や沖縄への想いがあったとしても、そこに暮らして引き裂かれている人にとっては、どうしても、どこか複雑な想いをさせてしまう存在であるのであろう自分の立場を想います・・・。
本当にヤマトの責任を果たしていくために、私は何をどう行動していくべきなのか・・・。果たしてそれがあるにしても、自分はそれを実行していけるのか・・・。
 ただでさえ、分かりきることが出来るわけのない他者の想いですが、その上に更に大きく圧し掛かる差別の抑圧構造の立場性から生じる責任と暴力。このことを、どう受けとめていくのかは、課題であり続けるだろうと思います。


 琉球新報の電子記事:普天間めぐる佐喜真氏の熱弁に官邸が激怒 沖縄県知事選の舞台裏2018年10月4日 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-813589.html
を読んで、更にそうした気持ちが深まり・・・。なんというか、言葉にならない気持ちでおります・・・。
 沖縄のひとたちを苦しめ、分断してきた立場の人間である自分自身の罪を、改めて思い知らされた記事でした。沖縄が引き裂かれてきた理由に想いが至らなかったから、こんなに衝撃を受けたのだろうと思います・・・。
自称「沖縄に想いがちょっとはあるヤマトンチュ」である自分は、そのことを忘れてはならないのに、油断していました。ほんとうに、恥ずかしく、沖縄の皆様に申し訳がない気持ちがします。まだ学生だった2004年年末に何も勉強せずに沖縄にいき、辺野古の海上行動に2週間だけ参加させて頂き、関西に戻ってから遅まきに無知で無恥な自分自身に気付いて、とてつもなく恥ずかしく申し訳ない気持ちで胸がいっぱいだったあの時期を、痛切に思いだすようです。

 自分の立場性を踏まえて、その責任を忘れずにいることは、本当に難しいことです。私自身、過去に 「こんなに頑張っているこの私がそう言っているのに」という思考回路になって、大切だった人を傷つけたことがありました。(今も気付かないだけでやってるかもしれません・・・。)取り返しのつかない(到底、許してもらえるようなことではない)強いてしまった膨大な苦しみと搾取について考え続けること。それは決して楽な道ではないでしょう。

 加害の立場性を自覚した上で、「なにもできないけど精一杯やろう」と努める続ける人間として生きられれば、虐げられた立場の人の心が、ほんの少しでも慰められる瞬間も起こりえるかもしれません。≪自分の加害の立場を忘れないで肝に銘じることが必須≫だと思います。そうした中で、努力や誠実さが本当にあり続けられれば、虐げられた側の人が、少しでも慰められる瞬間が、希望を感じてもらえる瞬間が、もしかしたら生み出されるかもしれません。その境界線は、加害側から越えてはならないものだと思います。そして、当事者の方たちがどんなに「もう線はないよ、いっしょだよ」と言ってくれても、その言葉に甘えきってはならないのではないかと私は考えます。これは、ほんとうに難しいことですよね・・・。しかし、その道は、ただ苦しくて責められるだけの生き方とは違うんだと思います。

 ただ一人きりで加害側の一員である自分に苦悩するのはキツイけど、それを同じ立場で分かち合える友や仲間が一人でもいれば、なんとかやっていけると感じます。(そういうところで重要なところの感覚が一致できないと深刻に苦しいけど・・・。「社会運動」内での矛盾の発露は心や想いがある人を一瞬で絶望させてしまうチカラすら持ってしまうものだと感じます。(別に私は今 特になにか運動できている立場ではありませんが)自分も気をつけたいと考えます。)
 誰か居てくれるからこそ自分の想いを発見したり確認できること、また自分が居ることで相手が想いを解放できる時もあること。このことは、一人ひとりが社会を変えていく過程の一番のベースにある関係だと思います。そこには小さくても確かな希望と、生きている喜びがあるんじゃないかと感じます。

 前にも書いたんですけど、苦しい立場の人のことを黙殺したり誤魔化して自己正当化して、罪を上塗りするより、それを止めようと決意したほうが、ずっと清清しく生きられるんじゃないかな・・・と思うんですよ。
ご自身の悲痛な体験を経ても、みんなの人間の権利や将来や、自然も含めての命めぐる世界を大切に守ろうとする一人ひとりの方と出逢っていけるから、自分にとっては、それはやっぱり幸福なことで・・・。

 もちろん、人間的に素晴らしい人や力強い人、仲間や友やという意見に共感できる人だけではなくて、意見の違う人も、自分には理解できない人も、いろんな出会いには意味があって、そうやって自分が変わっていけるんだと感じます。何度も何度も、自分勝手な思い込みに満ちた「正義」を打ち崩されて、思い上がる己に気付かされて、もう大丈夫だと油断したらまた転んでて・・・。でも、そういう中で、ほんとうに人々と神様に導かれて、真の意味で成長していける気がします。
 苦しかった時期も、今思えば今の自分に至る産みの苦しみだったと感じることができるところまで、連れてきてもらったと感じます。
 勇気を出して、一歩ふみだすことが自分の人生において、かけがえのない人々との出逢いと、共に生きることから生み出されていく小さいけれど確かな手ごたえ。そして新しい心の繋がり。遠く離れていても共に生きられる「連帯」という感覚。そうした希望が、天から与えられた人びととの出逢いから与えて頂けるのではないかと思います。

 人は、一人では生きられません。人は、誰と共に分かち合えたなら、なんとか生きていけます。「人は人の支え手になれる。だから神様はそのために、こんなにたくさんの人間をつくったんだよ」とある牧師先生から聞いたことがありました。きっと、そうなんでしょう。



 それにしても、この日本国家には、これ以上の罪と恥の上塗りをしてほしくないって本気で思います。なんでなの?どうしてなの??イイカゲンにしてよ!!って、出来うる限り問うてきたつもりですが、来るところまで来てしまいました。これ以上、取り返しのつかないことを、もうやってほしくないです。私も、加担したくありません。どんなに抵抗しても加担させられる、その責任は担わざるを得ません。でもそれに甘んじない、屈服しない。正義と平等を 求め続けます。
私はアベ氏が初めて首相をやった時期に、教育の憲法である教育基本法を改悪したことを絶対に許しません。
(教育はすべての子どもの権利です。「一部のエリートと、それ以外の子どもはエリートの言うことをきく実直な精神だけあればいい」という現教育基本法は次の戦争の大きな下地になっています。教育勅語についてのことも、そうした流れと同一のものでしょう。)

 日本政府アベ内閣に対しては、どの方も政治家としての資格はありません。
政治家は権力を有します。しかし、それは人々を意のままにするために与えられたものではありません。その国に暮らす人々(「国民」ではなく「住民」!)を平和で幸福で平等な暮らしに導くリーダーとして、その権力を民衆から託されているわけです。
そのルールを記載しているのが最高法規の憲法です。問答無用で自分の都合の良いように何もかもを歪曲する人たちが、支配欲と金と、ナルシシズムに満ち満ちた自己投影で人間を使い捨てています。
これは、政治家どころか人間失格です!

即刻にお辞めになって頂きたいです。今すぐにでも。

というか、みんなの力で退陣に追い込みましょう。これ以上、人間の幸福とあまりにもかけ離れている戦争や差別や分断に、人びとが引き裂かれないで済むように。

 

 現在、日本社会は「人権」という概念が立ち現れてきた、フランス革命以前に戻ってしまうほど簡単に人類の進歩をドブに捨て去るか、今のこの社会を再出発地点として未来を豊かにし、生きとし生けるものの幸福を追求していくかの二つの道の岐路にいます。もっといえば、人類としての幸福や生存を、国家や大企業の権力者たちに根こそぎ奪われるか、人間を人間の手に取り戻せるかの瀬戸際にいるとも言えると思います。言うまでも無く、どちらの前者は私はごめんです。このままじゃホントにヤバいです。

 沖縄の人たちが勝ち取ったデニー知事の就任は、日本の戦後民主主義の行き詰まりをヤマト社会に自覚させる目覚まし時計のようです。「目を醒まそう!」「本当に自分たちの声を聞いてくれる政治家を私たちは選べるんだ!」って思える、素晴らしいロールモデルになっていかれるんだろうと感じます。物騒な予告がされたというニュースもありましたが、第二のハーヴェイミルクのような結末にさせないように、守らなくちゃ。これ以上、悲惨なことも悲しいこともごめんです。
日本の警察はしっかり捜査して、犯人を捕まえてください。本気の捜査と対策を求めます。



 金と支配を至上のものとする権力者の思惑どおりにならないように、自分自身の内にある怠惰や無関心や無責任と闘わなければなりません。誰かを批判したり非難したりする以前に、まず自分自身がどういう姿勢なのか。問われます。
ただひたすらそれを誠実に示し続けていければと願っています。自分の暮らしからみつめてって、学びながら考え続け、隣人と正直に心を分け合って、話しを始めていきましょう。ちょっとずつでも、それぞれの場所で!

(「そんな余裕なんてない!もうこれ以上は頑張れないよ、生きるのに必死なんだから!」って人は、自分をだいじにして、心身を守って生存するのは、何よりも何よりも大切な闘いですから、出来る限り しっかり休んでくださいね。しっかり怠けすぎるくらい休めて自愛できるよう状況や環境が調えられますように祈ります。とにかく、自分を責めないようにして下さい。動けない自分を恥ずかしく感じる必要は皆無ですよ。生き延びてくれてるだけで、もう、もの凄いことなんですから!
っつーか、権力のあるあの方たちが人間に立ち返り、恥を知るべきです。ほんとにホントに。しつこいけど、本当に!!)

 なんか今日はいっぱい書いてしまった・・・・。今週は、朝起きるとプロテストソングが頭の中で鳴ってたりして・・・。動物的な危機の察知というか、「負けないぞ日本政府に!今日も頑張ろう!」みたいなテンションになっていて・・・・。ははは。
うん、闘うにしても、明日からもうちょっと落ち着きましょう、ですね。身体をだいじにしつつ精一杯、で。
人間としての日々の暮らしが、抵抗そのものなんだから。

 よーし、私も明日に向けて寝ます。台風のきてる地域の皆様は、どうかお気をつけてお過ごし下さい。
これを読んで下さったお一人おひとりの方の明日一日が、確実に守られますように。無事をお祈りします。
おやすみなさい。
2018/10/04

「教育勅語」肯定内閣への抵抗は、戦争の真実を学び気持ちを分け合うこと

 第二次世界大戦の大惨事を起こした日本軍。その最高責任者を神として崇めたてまつり、日本に住む一人ひとりの大切な子どもに戦争賛美を植え付け、人々を侵略行為にひた走らせた「教育勅語」を肯定しきる安倍内閣を、私は絶対に許しません。

この秋に憲法が、力づくで変えられてしまうかもしれません。憲法は戦争をしたがる国家という猛獣の首にやっと着けられた首輪です。日本社会の人間の権利であり、社会の基盤である憲法は、人権の砦です。


そして、 
私は人間です。
おなじ人間を崇めて服従するのではなく、全ての被造物である命の世界を生み出して下さった神様に感謝し、祈りながら、神様が与えて下さった自分自身という賜物を活かせるように努め、歩んでいきます。



 教育勅語に関しては、下記の記事をお読みください。
高橋源一郎の現代語訳が分かりやすく・・・・、分かりやすいゆえに勅語そのものの異常さと、悲惨な歴史を繰り返そうとする現内閣の闇に、恐怖が更に増します。改めて 戦慄する状況です。 
参考記事(BuzzFeed News):
「教育勅語は普遍性を持つ」と柴山文科相が言ったので、現代語訳を読んでみました―「はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください」2018/10/03 18:01 吉川 慧 籏智 広太
https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/tyokugo-sibayama


 天 皇を神とし、人間を「臣民」「赤子」とし、「あなたの命は鳥の羽より軽いのですよ」と教えた時代。
その考えを受け入れないで意見表明する者を「非国民」と呼び、呼ばせ、権力に殺されたり逮捕されたりした時代。
一方的な侵略戦争を「聖戦」とした時代。
アジアは解放されたのではなく、侵略された。侵略された国の戦争体験者(生存者)のお一人おひとりの証言を誠実に聴こうとすれば、どれほど日本軍が残虐なことをしたかを知らざるをえません。
人の権利など皆無で、自由に歌うことも思ったことも口に出せない、一人の人間として謳歌できる生の喜びと可能性の全てを奪われた、あの暗黒の時代。

 どの時代もそうですが、その時代もその時期を生きる一人ひとりの人間の生からできていました。
幼少期の教育がどんなに重要であるか。それが権力に利用されたときにどんなに恐ろしさを発揮するか。日本の皇民化教育が、第二次世界大戦下での日本軍の残虐な行為を可能にしました。教育は、悪に蝕まれたとき、人間本来の魂における善性すら覆いつくしてしまいます。

 渡辺輝人 弁護士(京都弁護士会)のツィッターでは、今月3日に、
大臣会見の発言の裏を取れたら、また記事を書くかもしれないが、とりあえず、教育勅語がどういうものかはこちらをご覧頂きたい。稲田は防衛大臣で管轄外だったが、柴山は文科大臣なので、教育にモロにかかわる。ヤバさは格段に高い。

と書かれていますが、本当にそのとおりで、本当にヤバいです。

 ◎渡辺輝人 弁護士の記事一覧
 https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabeteruhito/



 文部科学省大臣に発言を撤回させ、即刻の辞任させなければ、・・・そこを皮切りにして、なんとかアベ内閣を倒さないと、大変なことになっていくのは明白です。
「お上のいうことをきいて、お上の都合のいいようにみんな命を捨てなさい」という文部科学省が、子どもの命や権利を守ってくれるわけがないんです。 熱中症で子どもが死んでも、いじめ自殺がいくら起きても、ヘリから堕ちてきそうでもあっても。本当に、命なんてどうでもいいと考えている。こんな連中に子どもの命や、その子たち一人ひとりが本来もっている人間性を奪われてたまるかってんです。心から怒りが湧いてきます。何よりも大事なだいじな子どもたちの命や未来を守らなきゃなんないです。

 歴史の教科書からは日本の戦争で日本軍が行った行為はその事実を示す単語ごと消されてしまい、社会的に歴史の事実が継承されなくなって久しいです。そうした中で、戦争についての賛美と右傾化がより一層に加速化し、強まってきています。

 モリカケ問題は、税金のダンピングが非常に大きな問題ですが、森友学園が子どもたちに教育勅語を唱和させていたことも非常に問題です。そうした教育をする学校に日本政府がえこひいきをして税金を投入してきたことは、ありえないことであり、今回の文科省長官の発言の下地になっています。

 参考記事(しんぶん赤旗):安倍政権と森友 「教育勅語」持ち込み 狙いは「戰爭出来る國」 靖国派の国政私物化
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-12/2017041203_01_1.html

 森友学園の籠池前理事長は、尻尾きりにあって証人喚問された後に、教育勅語を唱和させてきた経緯と今後の方針を変更することについての声明文をだしています。

 参考記事(エキサイト・ニュース/LITERA):森友学園が安倍政権の愛国教育との訣別を宣言! 一方、安倍内閣は教育勅語の復権を閣議決定!2017年4月2日https://www.excite.co.jp/News/society_g/20170402/Litera_3043.html

 (この後、籠池夫妻は「詐欺」容疑で逮捕され、裁判も開かれず家族の面会も許されないで不当に長期勾留されていました。あまりにも露骨な権力行使です。アムネスティで国家にハガキ送るレベルの事件でした。

 参考記事:(AERA.com)接見禁止、窓なし独房 籠池夫妻の長すぎる勾留に元裁判官も疑問視 亀井洋志2017.12.6
参考記事: 籠池夫妻を保釈せよ!-読む・考える・書く(Vergilさんのブログ)
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/01/14/134815



 双極鑷子さんのツイッター記事(-2018年10月2日19:57 )では、教育勅語をもって教育された宗主国国民で編成する皇軍が行ったことが、奪い尽くし、焼き尽くし、殺し尽くし、そして犯し尽くしたことだった
と書かれていましたが、本当にこの言葉に尽きると思います。

 日本軍がアジア・太平洋地域でどのようなことをしてきたのか・・・
殺された人だけでも約2千万人もいます。その背景に、家族の命を奪われ、心身の健康を奪われ、家も故郷も燃やされた人たちがいます。娘を性奴隷にされ、息子を徴用された膨大な人数(もうその数は天文学的と言ってもいいほどの数)がいます。

 今わたしは、ずっと読みたかったが未だ読めていなかった本で、
金城重明先生の『「集団自決」を心に刻んで【沖縄キリスト者の絶望からの精神史】』(高文研・1995年)という本を読んでいます。

『「集団自決」を心に刻んで【沖縄キリスト者の絶望からの精神史】』
もくじ
Ⅰ 「皇民化教育」と沖縄
Ⅱ 極限の悲劇 「集団自決」
Ⅲ 絶望の淵から
Ⅳ 勉学と労働と信仰と
Ⅴ 牧師への道・アメリカ入学
Ⅵ 沖縄キリスト教短大の設立と発展
Ⅶ なぜ「集団自決」を語り始めたか
Ⅷ 教科書裁判の法廷に立つ
Ⅸ 問われなかった戦争責任
Ⅹ課題としてのキリスト教平和学


沖縄戦の“極限の悲劇” 「集団自決」から、はからずも生き残り、
両親、弟妹を失って孤児となった16歳の少年はその「戦後」をどう生きてきたか――。
「平和」の創造を人間が生きる核心の課題と見さだめ “歴史”の証言を語り続ける一キリスト者の精神史。(帯文章より)



という内容です。

 まだ途中までしか読めていなけれど、読みきれたら、またこのサイトに感想を書きたいです。この本の第1章と第2章を読んだら、皇民化教育の政策によって沖縄戦で何が起きたのかの確かな一部を知ることができるはず。まだの方は是非、キリスト教に興味がなくても、いちど読んでみてほしいです。



 アベ政権(イコール日本会議と言っても過言ではありません)がどんなに極右の集まりで、力づくで戦争をしようとしているのかを自覚し、抵抗する為には、
とにかく、一人ひとりが戦争の悲惨な歴史を強いられた先人たちの奪われた人生を認識しなければならないと考えます。
そのお一人お一人の幸せだったはずの人生を奪われた痛みと苦しみに満ちた叫び声を、どうにか感じ取ろうとする行為が、圧倒的な権力にも抵抗できる心の軸になるはずと思います。本当に、学ぶことと、その学びで感じたことを共有する勇気が、長期的に見てとても大切になってくるのではないでしょうか。

 しかし、日々の生活が精一杯だったり、苦しくて仕方ない人、自らで戦争証言を読むことが出来る余裕が無い人もいます。
というか、そういう人が増えていくような政治状況だからこそ、いじめの論理が発動し、歴史歪曲と暴力に満ち満ちた社会が構築されているのだと思います。一人ひとりに学び考える余裕を一切 与えようとしない社会です。

でも、だからこそ、誰か他の人が(自分に近い立場や年齢のひとが)受けとめたことの感想や想いについてのものは、生の戦争証言よりは比較的読みやすいかもしれません。
ですから、私自身は自分が聴いたことや見たこと、読んだりしたものについては、自分が主体となって情報や意思表示をしていきたいと考えています。大人として独裁政権に抵抗することは勿論だけど、これからを生きる子どもたちに、戦争証言の絵本などを読み聞かせなどで、お互いに感じたことを話していく時間を持つなど、暮らしの中で歴史を繋いでいく大切さを再認識していけたらと思います。

 歴史はわたしたち、今を生きる人の認識によって作られます。
捏造され歪曲されまた同じ過ちが繰り返され膨大な命が失われるか、事実が継承された上で過ちが繰り返されないように注意を払い平和な世界を実現できるか。
それはわたしたちの姿勢次第であると思います。善悪を委ねられた存在として、人間は善を選ぶことを天から望まれています。