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2018/07/26

障害者殺傷事件から2年の今日に

二年前の今日の未明に起きた、相模原 やまゆり園での障害者殺傷事件。
(一年前にここで書いた文書
 http://inariyasauce.blog71.fc2.com/blog-entry-640.html

今、なにかを書こうと思ったけれど、手が動かないまま。苦しい。
それでも何か書かないと耐えられない。だけど、もう言葉が・・・ 

それでも、それでも、なにかを書く。
辛すぎて、今日の今日までまたこの日のことを都合よく忘れようとしていたから。



どうして、あの人たちは殺されなければならなったのか。どうして、そんな恐怖を味わわなければならなかったの?
名前すら公表できないままで。(遺族がより被害や差別にあう この社会はいったい何なんだろう・・・。)
その場を生き残った人たちは勿論、この社会に生きている障害当事者も、あの日から言いようの無い不安と恐怖を感じながら生きているはずだ。

この社会は、この事件のことを、重大なこととして受けとめなかったように感じる。「障害者の命は健常者より軽い」と、立証したかのように。大阪淀川の監禁虐待死も、三田の長期監禁虐待事件も、どうってことないように起きてきた。(親の虐待行為への罰は、いつもあまりにも軽い。)

私は、こわい。
優性思想やありとあらゆる差別と暴力の仕組みが極まっていくこの日本社会が恐ろしい。

みんな、犯人と同じような、似たりよったりの考えしか持っていないの?
障害者だったら殺されてもいい?生産性がないなら生きてる価値ない?
それとも、「かわいそうなひとたちがかわいそうなめにあった」くらいにしか思ってないの?
自分は関係ないって思ってるの?

障害者である前に、みんな人間だ。

人間だよ。
人間が殺されたんだよ。
あなたが大切な一人のように、傷つけられ死んでいった人もだいじな一人のいのちだよ。

私たちの社会に巣食う 人間を奪う「優性思想」が、人が人を殺すことを正当化させている。それは「思想」と呼ぶことすら憚られる暴力の総念であると言える。誰か人が殺されること、誰かの魂を蹂躙することを、なんとも思わずに無視していく人たちがその行為を支持している。犯人を駆り立てた優性思想について、この社会は問わないまま突き進んでる。

(精神障害者であることを装い刑罪を軽くしようとした犯人の思惑や計画的犯行は、社会的には明らかにはされないままだ。
国は犯人の思惑は理解した上で確信的に見過ごし、「理由」のひとつとして追加して、精神障害当事者の差別を強め、具体的に監視する法律を強化しようとしていると私には感じられる。)


犯人は誰からも認めてもらえないと思って生きてきたのかもしれない。
誰かに認めてほしかったのかもしれない。誰かに「よくやってくれた」と言われたかったのかも。権力者たちに、差別と暴力を正当化する人たちから、自分を賞賛されたかったんじゃないの??
誰かに褒められるたえめに、誰かにお墨付きをもらうために。国家権力の座にある差別者と、そいつらに忠誠を持つことでしか自己を確立できない一般人が直結し、いじめの構造はヘイトクライムにまでなったように私は感じる。

政治家たちの暴言は失言と見做されなくなり、差別や暴力に対してお墨付きを与え続ける。そこに生きる意味を見出せない人たちが引きよせられ、暴力を体現するようになる。

そういう役割を率先してやってきた石原慎太郎氏も、身体の自由がきかなくなってきて、自分がしてきた言動に追い詰められているらしいと記事で読んだ。

記事:中島岳志さん 東京新聞【論壇時評】 2016年10月27日  
守るべき「弱くある自由」 「不要なもの」とされる恐怖
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/rondan/CK2016102702000244.html

中島さんの記事をよんで、なんというか改めて石原氏を始め差別者は不幸で哀れな存在だと思った。自分が差別してきたから、自分が自分自身に否定されるんだよね。そりゃ生きているの「こわい」よね。障害者は年をとって生きていったら、多かれ少なかれ身体の自由はきかなくなってくる。人は、「自分は永遠にその立場にいかないだろうから」とふんで、差別発言できるんだ。
(でも、だからこそ、自分は絶対にそうならないはず(と本人が思い込んでいる)のカテゴライズの人間に対しての差別がより火を噴くんだろう。出生エリアや、民族性や、性自認の定義からくる差別に人は加担しやすい気がする。無関心もより一層強い。朝鮮学校の子どもたちの修学旅行おみやげ剥奪事件も、ほんとうにあるまじきことだ。こんな社会で情けなく、申し訳ない・・・。)

それにしても、家父長制と男尊女卑のがベースの日本社会で自分を男性として定義し生きる人は、特に悔い改めにくいメンタリティを持っていると感じる。基本、競争があるし、勝ち負けがあるし、自分の体験を分かち合い語る文化が無いから。その一方で、権力にある座から暴言を吐きまくる男性中心の社会的強者から、「お墨付き」をもらった女性の暴力性は、すごいものがあるなといつも思わされる。例の女性議員の「生産性がない」発言には、本当に頭にくる。この人は、伊藤詩織さんのことも罵倒していたな・・・。
議員のおっさんが、「女は子どもを産む機械」みたいなこと言うのより、腹が立つんだけど、これも敵の思うツボで、悔しい。女性に言わせたほうが、女性同士でいがみ合うだろう分、おっさんたちは気楽なモンだ。そこも女性としての立場が利用されているけど(「女性の意見」的な)、この人をここまで権力に引き寄せたものはなんだったのかなぁとかも考える。


今回の「生産性がない」発言も、性的少数者への差別発言であると同時に、人間への、いのちへの冒涜だと思う。
だいたい人間は、国の生産性のために生きるわけじゃないし。ましてやお国の為に子どもを産み育てるわけではない。
一人ひとりの人間をなんだと思ってるんだよ!一人ひとりの命や人生は、国の道具やコマじゃないよ!

生産性があるとかないとか、誰が決めるんじゃ。と本気で思う。 
第二次世界大戦中かよ。気持ち悪いったらない。

ライターの小池みきさんの記事に、非常に共感したので紹介。まだ読んでおられない方は是非。
記事:小池みきさん 2018/07/22 12:47 note
「生産性のない人たちの支援は後回しだ」とかいうスーパーむかつく思想との戦い方
https://note.mu/mikipond/n/nd5ee09126075



目の前で起きる差別について、歴史歪曲について、流さないこと。きちんと伝えること。自分も差別をしていることが多々あることを肝に銘じて、考えるのをやめずに暮らすこと。ほんとうに、大切なことだと思う。

ナチスが600万人のユダヤ人虐殺以外にも、障害者や性的少数者やロマ民族を20万人という規模で殺したことも、関東大震災最中の朝鮮人・中国人の虐殺(日本の人も殺されている)が起きたことも、ほんとうにあったことなんだと現日本社会から肌で感じる。未来のそれを食い止めていくには自分自身と目の前にいる人たちと向き合うしかないのだと思う。

人が差別をしているとき、また周りがそれを見過ごすとき、それに対峙するのはやっぱりコワイけれど、それに同調するのは誰かの命や尊厳を奪う行為になる。そして、誰かの権利を奪う云々以前に、誰かを貶めることで上手くやれるような関係なんて、私は一切ごめんだ。自分に与えられているはずの人間としての尊厳を削り、溝に捨てるような真似はしたくない。それは私自身の人生と、このいのちを与えてくれた神様を裏切る行為になるからだ。

誰も私の生き方について、私以外に評価しきることはできないし、してほしくない。というか人間が人間に勝手にそんなことするのは許されない。
やまゆり園で優性思想による殺人行為の犠牲になった人たちの人生だって、そう。
生きていていいかわるいか、だれにも他の人間に評価される、ましてや命を奪われる謂れはない!!!

殺された19人の方たち。会うこともできなかったし、名前も分からないけど、忘れません。これからの自分の生き方に皆さんの存在が刻まれるように生きたいです。

19のいのち-障害者殺傷事件https://www.nhk.or.jp/d-navi/19inochi/で、お一人おひとりのことが御家族や施設職員さんによって書かれています。

犯行者の行為を後押しするようなこの社会の風潮に、精一杯 抵抗していく。
誰かを誰かの都合で、その人の命や人生の意味をなかったことにしたり、ウソつき呼ばわりしたりすることを、私は絶対に許さない。







そこかしこで人間の尊厳が侵されている。

被災地をほったらかしにしたうえでカジノ法案決めてく、国会。山本太郎さんの怒りの質問に涙がでる。
被災地では猛暑でほとんど活動できないほどの状況らしい。(先日の新聞には熱中症で全国で21000人以上の人が倒れ、確認できるだけで一週間で65人もの人が亡くなっていると知った。)
みなさん、家族や隣人のいのちも失い、ケガをし、家をなくし、故郷の景色を失ったなかで、懸命に生きておられる。デマのフェイクニュースが人々を疑心暗鬼にさせる勢力がある。被災地に生きる人たちを支えようともしない、放ったらかしにして笑っている政治家たち。
原発が爆発しても、放射能は危なくないって言うし、沖縄の海を埋めて人を殺し儲けるための戦争基地にしようとしている人たちだから、ほんとうに人間の命や暮らしを踏みにじることをなんとも感じられないんだ。ということは頭では分かっていたけど、でもここまで、そうなんだね・・・。ほんとうに、そういう国なんだね・・・。
こんなにも腐敗しきった政治を、ほんとうにどうして私たちは変えられないのか。悔しくて悔しくてたまらない。


女性や子どもへの性暴力の横行と、それが問題として見做されない風潮がいよいよ極まっていることへの嫌悪感も募る。
東京23区で、ある妊婦さんに男子高生が近づいてきて「ひざかっくんしていいですか?」「なんでナカダシしたんですか?」と笑いながら言ってきたという体験をツイッター上でみたけど、今まで家庭や学校や職場で起きていたことの枠が拡がっているのを改めて実感する。私自身、電車の中で見も知らない学生たちにセクハラ発言されたことがある(その時は三人の男の子のなかでもイジリという名目で虐めがあり、二重に見ていられなかった)。見も知らない人にそれをやっても大丈夫と彼らが思えるのは、バレたとしても罰せられない社会だと見越しているからだ。
最近もらった「ふぇみん」の紙面に、痴漢は依存症だという記事が載っていた。競争社会で社畜化することを強いられている男性たちが、そのストレスから女性や子どもに性暴力をふるう。(女性からの暴力を受けている立場の人も勿論いるけれど。)
日本軍性奴隷制度の歴史的隠蔽と責任放棄は、今、私たちの社会にこんなにも現れている。

性交渉が愛にみちたコミュニケーションである世界は死んだのかって思う。
性への暴力、人間の尊厳の蹂躙と、支配欲。
それはもはや性欲ですらない。
富山市の集団性暴力事件も、加害者も警察の処分も絶対に許さない。
暴力による支配を正当化する彼らが、人間の恥を自覚できるようになるには、何が変わる必要があるのか。
子どもや女性を、そして人間を支配する対象としてしか捉えられないという認識が常識化するなら、シャレじゃなく人類存亡の危機だ。日本社会はこれ以上ない瀬戸際だ。ほんとうに、こんなことを看過しては未来は無い。

自分が変わっていくこと、一人ひとりが変わっていくことで、社会が変わる。その可能性を捨てないために、自分はどう生きるか。無念の死を強制された死者たちに、声なき叫びをあげている人たちに、そして未来を生きるはずのいのちに伝えられるものが、どうかありますように。今日も日が暮れた。今日も生きている。
想いを書きながら、祈りながら、最後まで生きぬく決意を新たにする。