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2018/05/30

「アベは辞めろ!」コールに合わせて、家で踊ったり踊らなかったり。




改めて思ったけど、「倒幕」って、語呂がよくて言いやすいですよねー。
語呂はよくないけど、打倒・現政権!!!
嘘つき云々以前に戦争やりたがりのアベは、首相なんて権限を持ってはならないヒトです。ありえない。
いいかげんにヤメロ!!!!
アソウもいつまでおんねんな。いいかげんに立ち去れ!!!!
性暴力を無法国家の法律が裁かなくても、人を過労死を法律で正当化しようとしても、アンタたちの所業を天は見ている。
レイパーのオッサンたち、あんたらはほんとうに人間か?なら そろそろ恥を知れよ。




みんなで見よう!
市民メディア放送局の動画配信!
https://twitter.com/info_9

山本太郎さんも志位さんも、めっちゃ闘ってくれてる。政治家としてやれること、力を尽くしていのちがけでやってくれてる人もいる。中でやれること、外でやれること。自分にやれることの全てを人のそれと連動させていく!


2018/05/30

いま確認し掴み取る人間の尊厳 -ケン・ローチ監督作品『わたしは、ダニエル・ブレイク』


障害者年金 1000人打ち切りか 審査集約 戸惑う受給者(毎日新聞2018年5月29日 06時30分)
https://mainichi.jp/articles/20180529/k00/00m/040/163000c

生活保護減額どこまで 半年後から段階的見直し(中国新聞 2018年5月29日)
http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=435863&comment_sub_id=0&category_id=256


日本政府は障害をもって暮らす人間や、生活困窮者や、高齢者が死んでいくのを望んでいるとしか思えない。
障害年金を打ち切る、というのは、その人の人生を見放し「お前の人生なんて知ったこっちゃない。なんなら死んでしまえ。いなくなれ」という明確な態度だ。
いまだって、年金うけられなくて死んだり自殺させられたり路上で生活したり、性を収奪されないと生きられない障害者がいるのに。
路上に押し出された人たちに精神や知的の障害当事者がどれだけいるだろう・・・。
だいたい年金が出ている人であっても、日本の年金額のみでは自立した生活はおおよそ不可能なはずだ。年金が出ている人でさえ保障されていない生存権が、これ以上切り崩されていく・・・。

2年前くらいに厚生労働省が障害者の年金をかなりの規模で打ち切っていくという方針をだした。地域による受給者の数の差を是正していくという意味不明な論調で、精神障害、知的障害の当事者から、というように発表されていたと記憶している。
日本政府は、改めて個人の切り崩しを取る姿勢を明確化したと感じた。手始めに、まずはより組織しにくいだろう当事者から、ということだろうか。障害者自立支援法が当事者運動や民衆の抵抗によって2010年に障害者総合支援法に改正させられた経緯から、人々が連帯しにくい生活費の部分に、これまでより意図的に手をつっこんできたのだろう。

生活保護受給者への減額も、おなじ。なんの希望も見出せない暮らしでも、この仕組みにすがるしか生きられない状態の人に、今以上の苦しみを強いるのか。受給者はどんな理不尽なことがあっても、逆らえない。一昔前のニュースでは福祉事務所のケースワーカーに性暴力をふるわれていた女性の受給当事者もいたときく。彼女は今、どのように暮らしているのか。
そもそも役所にいっても生活保護の申請すらできない(役人の「水際作戦」に阻まれた)人たちはそれからどうなっていったのか・・・。
生保に対して意図的なネガティブキャンペーンが始まってもう何年も経つ。この社会の軋轢にあえぎ苦しむ一人ひとりの苦難が放置され、無視されている現実から、一応は苦しみから「保護」され、「保障」されている(とされる)人間への憎悪が、テレビによって組織化され暴力の矛先は受給当事者に向く。垂れ流された差別を内面化した人々は、受給当事者を見下げて攻撃する一方、「生保を取る位なら死ぬほうがマシ」という感覚も浸透したように思う。こういう人たちは、必要となっても、その権利に手を伸ばせなくなる。

このネガティブキャンペーンとその結果を考えたやつらが、今の「自衛隊がかわいそうじゃないか」論を はってるんだろうなーと感じる。政府の思惑をそのまま世論にしていく広告やさんには優秀な心理学者さんがいっぱい雇われているんでしょうなぁ。
人々の思想を枯らし、お互いを攻撃するように仕向け、人間の魂を死なす死の商人だ。くたばれ!

障害者も困窮者も殺すな!!!!!

人間は働かなくても働けなくても 誰しもに生きる権利がある。
だれだって、働けないときがあるし、時には働きたくないときもある
どんな人も生きていって年をとれば、働けなくなるときがくる。

障害をもって生まれてきた人も、事故にあった人も、治る病気になった人も、治らない病と生きていく人も、みんな人間として生きる為に この世に生を受けた。それは天が与えたもういのちだ。そして、どんなにいつも元気いっぱいに、常に健康に生きてきた者も、生き続ければ必ず年をとる。老いれば誰もが賃労働はできなくなるし、病気や老化で障害者になっていく。

大体、人間社会に ほんとうに必要な仕事や労働に賃金が発生しにくい場合も多々ある。
賃労働は、その一人ひとりがやりたい、するべきと考えられた上で労働者自身に選ばれ、労働者個人の人柄が潰されない「仕事」である得るべきだ。それが人権というものだと思う。だが、実際はどうだろう。

この日本社会のなかで、労働について、仕事について、ライフワークについて、考えたい人も
日々の糧を得るための賃金を手にするために、思考を停止して心身に鞭打って「働く」。やれるまでやりきるしか生きる道が残されていないから、人は懸命にそこでのタスクをこなす。倒れてしまうまで。

経済成長・資本主義に役立たない、賃労働に使えない、国家の利益にならない人間は生きる価値がないか?

いのちを馬鹿にするな。
それじゃあ、あんまりにもお粗末で腐りきった世界じゃありませんか。
そういうこと言う人は、「そんな価値観で生きてて嬉しいか?楽しいか?心の底から笑ったり、安堵したりできるの?誰かを大切に愛したことはないの?あなたは、なんのために生きているの。」と訊いてみたい。

神様はこんな世界にするために人間をつくったのではない。

福祉の切捨ての問題は、一見、社会的に追い詰められている人たち(括弧つきの「弱者」)を標的にしているように見える。
しかし、これはこの社会で生きている全ての人間の生存権の保障そのものの破壊だ。


「今、すべての人にみてほしい」という宣伝文句が、本当に本物だったと感じた映画がある。
二度目のパルムドール賞を受賞したケン・ローチ監督の
 『わたしは、ダニエルブレイク』(2016年)http://www.longride.jp/danielblake/

“生きるために、もがき苦しむ人々の普遍的な話を作りたいと思いました。死に物狂いで助けを求めている人々に国家がどれほどの関心をもって援助しているか。いかに官僚的な手続きを利用しているか。そこには、明らかな残忍性が見て取れます。これに対する怒りが本作を作るモチベーションになりました。(ケン・ローチ監督)”





苦しんでいるあなたにも
苦しめているあなたにも
関係なくて涼しい顔したあなたにも
苦しみに気付くまいと必死でいるあなたにも

ダニエルはすべての一人ひとりに呼びかける



2018/05/28

種は命で、命はみんなのもの。農水省の役人たちは井上雄彦さんの『バガボンド』37巻を読め!

農水省は、農家が購入した種苗から栽培していた種や苗を次期作に使う「自家増殖」を原則禁止の検討へ ~違反すると“10年以下の懲役、1,000万円以下の罰金”~
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=161708


学生だった頃、遺伝子組み換え作物の問題を大学で学び、知ってから15年以上たつが、種子独占やバイオパイラシーの問題が日本にもいよいよ顕在化してきた。「海外でこんな酷いことが」と本で紹介されてきたことが、自分の社会にも水面下で次々と浸透していく。ついに来たか、ほんとーに来るもんなんだなと、どこか呆然としつつ、とにかく自分の所感を書いてここに載せてみようと考えた。


わたしたちは、このままだと種をまき野菜を作ることすら禁止されてしまう。
「種は、企業の専売特許だから」と。この罰則を農林水産省が実施したら、種を自力で植えたら罰則・罰金。そうなると、種は、人間が自由に手にできるものではなく、企業のものだということになる。いのちを育て、引き継いでいく農業をする権利が消滅させられる。
お金があるひと(もしくは借金制で)しか、野菜は育てられず、種をつけないよう改造されてしまった作物を毎年、セットの農薬とともに購入しなければならなくなっていくだろう(モンサントなど)。もうこれはかなり以前から諸国で起こっていた問題だ。遺伝子組み換え作物は勿論、エフワン種子など日本の社会でも一代限りの品種の歴史は短くない。しかし、それはこれまでは選択できるものだったが、このような法律が現実化すると、種をお金をだして買うしかなくなる。

インドの科学者ヴァンダナ・シヴァさんや、心ある日本の農業関係者の皆さんが作物の種を集めてこられたが、今その意味が実感される。小説よりマンガより、何より悲惨な闇がこの世界に根をはり続けて、いのちの連鎖は支配者に断ち切られようとしている。現実は、何よりも悲惨だ。
18歳から大学で環境問題を学ぶ機会に恵まれた自分が、一貫して感じるのは、現実の酷さの現実感のなさ。呆としてしまうほどの、圧倒的な力の流れ。不平等と不正義と暴力。もはや取り返しのつかない現状。このままでは更なる破滅を避け得ないという絶望。
まだ当事者だと自覚できなければ、日常は変わらなく見え、問題を忘れて過ごすこともできるにはできる。しかし、私たちの暮らしの深部で、時と共に事態は進行し、世界は極限に向かい続けている。自分が生きる世界の実態と、どう向き合い生きるか。それが環境問題の真髄だと私は考えてきた。

腐敗した政府と力をもった多国籍企業。そこに力を与える「人を不幸にする」科学技術。権威により長時間かけてコントロールされた人々の悪意の矛先。階級や優劣の差別と排外主義、満ち満ちた社会の内にある操作された大量消費と無意識化。価値観も思考という行為自体も人間は奪われつつある。シューマッハが『スモール・イズ・ビューティフル』の前書きに、聖書の言葉を言い換えて「軽薄な者が盲目の者の手を引く社会」と書いてたのが印象的だったのを思い出す。(「盲目」って単語を例えに使うのにはちょっと抵抗あるけど。)

日本の農業はただでさえ様々な問題で存続が危ぶまれているが、ほんとうにこの国家は何を目指しているのか。「売国奴は誰だ!」と怒りが煮えくり返る。しかし、ちょっと考えてみると、日本政府は明らかにはしていないが、食料自給率を下げ続け、農業が壊滅していく状態を目指して昔から淡々とやってきた。米不足を経験しても減反政策をやめずに、海外への食糧依存を強めてきた。そう考えて最近 腑に落ちたことがある。これは国内に暮らす人たちに対し、いつでも国家が「兵糧攻め」できるようにするためではなかろうかと。
戦時中、配給の券がもらえたのは国家に楯突かなかった人たちだけではなかったかと想像する。どんな強靭な思想家も、食べて飲まなければ生きてはいけない。国家は悪法を手当たり次第やっているように見えるときもあるが、明確な意図があってやっているように思う。それは、目指すところ国家による人間の奴隷化の完成ではないだろうか?

このまま、いのちのつながりを金と支配権力に換算している連中の思うままにしたら、人間は与えられたはずの幸せをすべて奪われていくことになりかねない。天が決めた命の仕組みすら変えて、儲けようとする企業ののさばりは、政治権力による後ろ盾を根拠に、神をも恐れない。ありえないことが積み重ねられ続け、到着してしまった今。
なにもかも来るとこまできた。ずっと前からだけど、今は更に危機だ。人類は滅びるより酷いことになりそうな予感がする。
気候変動ひとつとっても、みんなが実感するくらい変わってきている。四季すら崩壊しつつある。世界中で緑も、珊瑚も消失しつつあり、生き物は絶滅し続けている。降るはずの雨が降らない地域では、作物はからからに乾いてる。あるところでは大雨で家が流される増水や、家が壊れるほどの突風も、わりと頻繁に起きてて、地震も噴火も。これは自然なのか、それとも激変による結果なのか、誰にも分かりはしない。
ただ、「のびきったゴムが弾け切れている最中なんだ」と、実感し、戦慄が走る。南極と北極の氷が溶け出して沈むまで秒読みかもしれない。太陽の光を受け続けたら皮膚がんになったり、息を吸うだけで内臓疾患になりかねない都市だってもうありふれてる。

その一方で日本社会は、 社会的政治的な限界を迎えている。
憲法も、民主主義の形骸化と退化も、更なる軍事化も、それに伴う独裁を可能にする監視社会の強化も、教育の愛国化や優劣競争主義も、優性思想も、農業の衰退も、医療福祉の後退も、原発の爆発も、災害の放置も、人権意識も歴史教育もなにもかも、捻じ曲げ、いのちの本筋からは反れて独裁国家の道をひた走り続ける。多大な犠牲と苦しみの歴史の上にやっと手にしたはずの権利が、いのちの形すら、過去のものへ押し流されていくのを見るのは本当に辛いし、申し訳なく、情けない。

日本政府はこの期に及んで、巨額の税金を私物化したことを、バレバレの嘘をついて、証拠は捨てたと言い、それまで一味だった人間も簡単に切捨て、監獄にいれたり死に追いやっても開き直り続ける。

この国のトップはなんなんだろう。どうなってんだろう。10年前だったら、発言ひとつで辞職していた政治家たちが、ここまでのさばり続けられるのは、それを認めて服従してしまう民衆の姿勢をなめきってるからやんね。
でもアベ政権みたいな男の人、社会の中にうじゃうじゃいるもんな。こういう人たちからは、支持され続けるでしょうな。学校から社会に出てもうだいぶ過ごしたけど、権力を持つと人間はおかしくなりやすくなるんよなぁ。

って、書いてみて、己を省みたら、こんな力のない私自身も、めっちゃたくさんの権力を持っていた。
(大人だとか、日本国籍や選挙権があるとか制度に乗っかって優遇されたりとか、異性愛よりだったりとか、身体障害がないとか、その地域の住民ではないとか、何かの当事者ではないとか・・・。母語を自由に使えるとか、故郷があるとか、大学いけたとか、こうしてウェブ上で発信できるとか、いろいろありすぎるけど。あ、そもそも人間だということが超特権だよね。地球の動植物を絶滅させまくり、わんこにゃんこの殺処分ひとつとっても。って、こんな書いてもキリないんだけど・・・。)

自分に権力があること(優遇されていたり、違う立場の人を社会の構造的に踏みつけてきている状態の立場であること)を自覚しないで振舞うことが、差別という暴力を生み出すんだよね・・・。私自身に悪意はなくても、立場の違いを踏まえないで繰り出した言葉や行動そのものが、差別や暴力を上塗りし、強化してしまう・・・。
当事者にとっては「意識するかしないか」なんて選べない、苦しみを強いられた生をいきている事実に対して、あまりにも無関心であったり、無視して通り過ぎていける目の前の人との差を感じたときに当事者は深く傷つけられるんだろうと思う・・・。相手がどんなに良い人で、大好きな人でも、その断絶を感じたときに、それまでの関係に線がひかれてしまう。その一人の言動の背景に、社会という氷山の大きさを感じさせられ、大きな氷山に信頼していた人が、からめとらえている現実に打ちのめされる。

こうした断絶状態を打開していくには、気付いていない人が自分のしたことに気付くしかない。しかし、気付いていない人がそれを自覚するのは難しい。そうなると、気付いた人が言うしかない。でも、いつも気付くのは打ちのめされた側だから、苦しめられた人が更に問題を打開するのための苦しみと責任を背負わされている。

自分を悪意なく傷つけた、表面上は関係が悪化していない人に、それを分かってもらえるように伝えるなんて、すんごい労力だし、大体 こわいだろう。社会には構造的な暴力装置があり、そのどの立場に自分たちがいるのか。そういう社会の概念や自分の責任や務めを、意図的に全く教えずにきた教育や常識が根底にある日本社会で、こうした問題への話が通じる人はそう多くない。
ただでさえショックを受けているのに、その傷を説明した上で、更に相手の態度によって塩を塗りこまれる。信頼した人から、無意識ではなく意識され選択されたコトバや態度によって決定的に傷つけられる。

これまでの人生でたくさんの人に失望してきた人ほど、自分だけ気付いている状態なら、自分の気持ちをごまかせられれば、「なかったこと」として、これからも「仲良く」したいって思ってしまうかもしれない。もし本質的に話し合って決裂した場合、表面上の関係もクラッシュする。うまくいったら葛藤したすべてが報われて、心が晴れるし心配も吹き飛び、相手との信頼関係も深くなるけれど、うまく行かなかったら、きっとその人との関係は終わっていく。それなら心底では辛くても、自分が痛みを忘れて、これまでのように関係を維持できた方がいいんじゃないか。でも、うわべは仲良くできても、本当は信頼できなくなってる関係でいいのか?
そもそも、この痛みを「なかったこと」にしてしまうことは、自分に嘘をつくことになる。それでいいのか?同じ立場で闘ってきた人たちの生き方も無視する流れに与してしまわないか?誠実さがあるのか?裏切りじゃないか?自分の生き方としてそれでいいのか?

私の身にそういうことが起きてきたときは、話し合うエネルギーと自分の中の相手のだいじさを天秤にかけ、すぐ答えがでる場合は早々に諦めて離れた。でも、大切な人や信頼したい人には、それはできなかった。黙って離れるのは、相手に勝手に見切りをつけて見捨てるような気がした。相手が自分にとって大切な人であれば上記のように悩み、破局覚悟で話しをしてきた。それは、私が今よりずっと何も知らないときに、私に対して諦めないで呼びかけ続けてくれた先達や仲間たちから受けた恩への証でもあった。
同時に、意志を持つ持たない以前に、見かけの平穏に耐えきれず、本質的な安心でないと必ずいつかガタがきてしまう、ある意味で正直で素直な心身を与えられたことは、大きな恵みとして私の生き方の基盤にある。日本社会的には不適合でも、いのちある人間としてはこれでいいと私は思う。(この社会の強いるスタイルが人間的でも生物的でもないのだと強く感じる。)


人権がある程度は共通認識としてある場所でも、傷つけた者は知らないままに差別は日々起こっている。「自分は差別問題に意識がある」という過剰な自負心は思い上がりを生み、そこから生じる越境行為は、なによりも当事者の尊厳を侵食していくからだろう。
「自分はどんな体験を重ねても、その当事者にはなれない。だから、決して同じようには感じられない」ということを肝に銘じることが本当に重要なことと思う。(もちろん、同じ立場の人間へ対しても、同じことが言える。「私たちは仲間であっても、個人個人は同じではない」という精神的自立が、ほんとうの連帯を生み出していくと考える。)

善意からすら暴力が生まれるのが差別の恐ろしさだと実感する。
無知であり、無恥な自分に 精一杯 自覚的であれたらと願う。差別したくないと願うとき、段差の高いところにいる自分の足場を確認し、段差の低いところにいさせてしまっている人への己の想像力の足りなさを、常に自戒していく必要がある・・・。それをするには、勇気をもって投げかけられている声と出逢い、ほんとうに聴くことや、歴史や社会の背景を学び続けることが必要だと心から思う。

「ありえないこと言ってるけど、こいつは話せば通じるかもしれない」と相手から思われる自分自身を示したい。その人の気持ちを教えてもらえるように。知らないうちに諦められてしまわないように。気がついたらいなくなられていないように。いつ何時も、「ああ、こんなんなら、こいつに話さなきゃよかった」って失望されないように頑張っていたい。



盛大に話がそれた。

でも、今の日本社会で起きている現象で私が最も不可解で怖いもの一つは、現政権を支持していない人も、なぜか自民党に投票してしまうっていう現象なんです・・・。
こわい!なんで? だいじょうぶなの??っていう。
原発爆発しても翌日出勤していまうっていうのに似てるのか? ううーー

・・・みんな、考えていることを出せない生活をしすぎて、もう自分でも感じていることを 表現できなくなりすぎて、ついに色々と一致しなくなってきているのかな・・・・。考えていることを表面にだしたら疎外されて当たり前なのが日本社会の現在地だものなぁ・・・・。

いじめ構造がどの世代のどの場所にもあまりにも常態化していて、思想的自警団化しているのかなとも思う。いまや大学でもいじめがあるくらいまで社会は衰退しているし、職場はパワハラやセクハラの能力主義によるいじめの嵐なので論外だし・・・。いじめと差別の連鎖により、統治する側は楽な時代だろうな。

・・・・ここまで、書いてみて、本当に思ったこと言える人間関係が稀有な社会になってしまった現状が悲しくて辛い・・・。

誰でも、「それでも人に繋がりたい」って思うから、みんなヘイトスピーチに取り込まれていくんだよなぁ・・・。
「味方がほしい」、「誰かと共感したい」、「繋がりたい」、「笑いあいたい」、「出会いたい」
そういう人間として生きていく本来の欲求や望みが、利用されつくして暴力が増大していく。いじめと一緒で。権力者は笑いが止まらないよね。

悲しくて悔しい。

なんて息苦しい・・・。
なんて人間を馬鹿にしている、いのちを馬鹿にしている社会だろう・・・。
尊厳のすべてを踏みにじろうとするこんな社会を作ってきた責任が自分にもある。選挙権を持って長い時間いきてきた人間として、恥ずかしく申し訳ない。
人間の腐敗はもはや政治のみに止まらず、ふつうの一人ひとりの中にも支配と暴力が入り込んで はびこっている。
根こそぎからの人間の破壊。
みんなしんどくて、殺されそうで、本来ある人間の苦悩も歓びも手放し、国家へ服従・追随して、必死で生きようとしているのだろうか。 瀬戸際にもほどがあるよー・・・。

生きるって、どういうことだろう。生き延びることとは。



そういえば、今年の5月3日の憲法記念日に、
『生きる 劉連仁の物語』著:森越智子 イラスト:谷口広樹
https://www.doshinsha.co.jp/search/info.php?isbn=9784494020423
を読んだ。

ああ、冒頭の話とつながったな・・・。

中国・山東省の農民だった劉連仁(リュウ・リェンレン)さんは、1944年9月に囚われ、日本への強制労働者として連れ去られ、北海道の炭鉱から死ぬ思いで逃げ、北海道の山中を12年間さまよい 生きのびた。
共に逃げていた仲間を失い、自死を図ろうとした劉さんが、それでも生きる力を掴み取る転換点の描写がすごすぎて、涙がとまらなかった。戦争の犠牲を、数や規模で知ることも大切だけど、たった一人の人の生を丁寧におい、深く感じさせ、想いを寄せさせる文学の力を改めて思い知った。

すべてのいのちがその本来の姿として決して生きることをやめないように、私も生きようと思う。

こんな状勢で、諦めそうになるけど、戦争はどんなことがあっても阻止しないといけないって、魂が震えるような気持ちになった。生きていた劉さんのことを無視し、謝らないどころか開き直り10万円をわたそうとしてきた当時の総理大臣はアベ氏の祖父だった。憲法は人を虐げる国家という巨悪を縛るものだ。日本国家の首輪、足枷を外したら、いのちは巨悪に支配され、末期的な環境になっているこの地球に希望的な未来は無いだろう。

人間は、言葉をもっている。文字もある。歌もある。人はヒトではなく、人は人間だ。
時空すら超えて、人と人の間を繋ぐ術を 私たちは受け継ぎ、育てている。
人生を賭して声を残してくれた人と、ひとりの人間として出逢い続けていきたい。



先日ウェブでみた、木村夏樹さんという方の写真。

「声」 木村夏樹 写真展 ー 3.11以降の市民活動の記録 ー 2018年5月19日〜6月9日 入場無料 神保町 農文協・農業書センター 東京都千代田区神田神保町2-15-2 第1冨士ビル3階
https://twitter.com/_natsukik

街の中や官邸前で、諦めず声をあげ、連なっている人の姿を記録した木村夏樹さんの写真に勇気付けられると感じた。
どんな絶望の中でも声をあげる人がいる。服従しないで生きる!って全身全霊で表現している人たちのパワー。
悲壮感というよりも、屈しない意志と尊厳がみえる。

なんていうか、結果が出ようが出まいが、実を結ばないことであろうがなかろうが、自分の持ち場で私自身がどう立っていくか。
どう生きていくか。一貫性を持って歩めるかってことやんな。と じんわり感じた。
弱ることも、ダウンすることも、休むこともあるけど、皆さんに元気をもらいながら、そこはブレずに生きていたいと思います。
なっがいのに最後まで読んでくれたキトクな方、ありがとうございました。温度差が激しくからだに堪えますが、自愛していきましょう!

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2018/05/15

赤ちゃんだった私たち



一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

     (マルコによる福音書 第9章 33節~37節)



イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

    (マルコによる福音書 第10章 13節~16節)







 『星の王子様』に書かれているとおり、すべての人ははじめはみんな子どもだった。

年をとるほどに幼い日のうちに体験したことの意味と、その重みを自覚する瞬間がある。赤ちゃんやこどものときに大人たちから受けてきた関わりが、人との関係を結ぶための基盤となっていると感じる。関わりを持たれず、愛を受けにくい状況にいる子どもたちは、愛されたくて、素直に愛を受けとめてもらいたくて、苦しむ。その苦しみを重ねた先の絶望の、その果てに、自分自身や他者を傷つけていく生き方を選ばざるを得なくなる大人になる場合がある。日本社会では人間らしく暮らせる生活や共同体が崩壊しつつあり、愛が枯渇し、暴力や差別が連鎖・蔓延している。様々な問題のしわ寄せの被害を最も受ける立場にいるのは赤ちゃんや子どもたちだ。

そして、独身であろうが妻であろうが母親であろうが、いつも決まってまとめて責任を負わされるのは女性たちで。(赤ちゃんを遺棄したり、子どもを虐待する母親の背景に横たわる日本社会の闇の深さ。この社会に巣食う性暴力の根深さに呆然とする。)

日本社会の少子化は女性のせいでも、若者の価値観の変容のせいでも無い。結婚や子育てを不可能にしている雇用の形態や経済・賃金の格差、女性差別、子育て支援がないことや、教育にお金がかかりすぎる等、福祉政策の希薄さなど言い出せばキリが無いが、とにかく日本政府の政治的責任は回避できないと私は考える。意図的な失策を棚に上げて、責任を個人に押し付ける政治家たちは言ってることもやってることも、メチャクチャだ。

悪い権力者たちが、はやく権力の座から降ろされて人間らしい人間になれますようにと祈る。力や才能は人々を支配するためのものじゃなく、人々の幸せを実現させるために与えられているものであると思う。人としての恥を無くし民衆を虐げ、支配し、私腹を肥やし続けている現政権と周辺の連中は本当にいいかげんにしてほしい!ほんとうに、いのちの敵だ。

しかし、こういう状況に歯噛みし続けることで、自分も連中に似てきてしまう部分があるから、注意して我が身を振り返らねばだなぁと、しみじみ思う。私自身も強者であり、差別者だという視点を忘れがちになるからこそ、私には主イエスの存在の再確認が日々必要だと感じる。すべての子どもは大人と対等に接せられる必要があるが、すべての子どもにとって大人は「強者」であるから、暴力や支配が発動しないように、進みながらも常に考え、自問自答し続けねばならないと思う。


政治や社会をすぐに変えることはできないが、今、自分が関わるすべての子どもたちに(すれ違う子どもであっても)、その子の存在への肯定と祝福を伝えることが大切だと考えている。目線ひとつであっても、声かけ一つでも、具体的に表現した場合、子どもたちは自分に関心を向けられたことに対して、なにか反応してくれる。そうした触れ合いから生きる力を充填されることも多い。
(親は人によって無視か喜ぶか分かれるけど。あんまり都市部でやると通報されちゃうから、こっそりやろうかな。)
すべての子どもが飢え渇かず、衛生を保たれ、脅えず、大切にされ、自由自在に表現できる暮らしができる世界が来るように希う。

子どもはいのちの未来そのものだ。愛をもって育んでいくのが大人の役目。そうやって全てのものが受け渡されていく。

自分で産んでもうまなくても、赤ちゃん子どもたちは私たちの宝。そうした生き物としての根源を取り戻していかないと人間社会は破滅する。目の前の子をしっかり大切にしていきたい。




人間が人間であるために、幼少期に何が必要かを 映画『いのちのはじまり』の映像は教えてくれている。私は映画本編は見損ねたけど、いつか観たい。公開された日本ユニセフ協会の編集映像に感謝。アップしておくので、お時間あれば、ゆっくり御覧ください。



映画『いのちのはじまり』予告1(1分58秒)

https://www.youtube.com/watch?v=yQsXMKorFoY&t=1s


映画『いのちのはじまり』予告2(2分18秒)
1と内容が違います!
https://www.youtube.com/watch?v=qOBK_TGZDfY



ふれあいを大切に(3分43秒)映画『いのちのはじまり』 から
https://www.youtube.com/watch?v=BxNVqoK04cQ

赤ちゃんは科学者(3分46秒) 映画『いのちのはじまり』 から

https://www.youtube.com/watch?v=bU7GrSdujdU&t=1s


あそびとはじぶんらしくいること(4分16秒)映画『いのちのはじまり』 から

https://www.youtube.com/watch?v=VvMWyUFJc6s


おとうさん(2分23秒)映画『いのちのはじまり』から

https://www.youtube.com/watch?v=y9C6sWpdVxo