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2017/08/28

歴史家ハワード・ジン氏の講演映像

いつも覗かせて頂いているブログhttp://kokousa.exblog.jp/で見た、歴史家のハワード・ジン氏の講演映像を紹介します。
湾岸戦争が始まった時のバーニー・サンダース氏の演説映像ぐらい痺れました。
ので、またまた転載させてもらいます。

長いけど、一見の価値あり。頭と胸がすっとする。
この講演はオバマが当選した直後のもの。しかし今の大統領はトランプなんだ、よね・・・。

日本がこれからどうなっていくのか、とか
私たちがこれからどう歩んでいくのかに非常に大切なことがつまっている講演だと感じます。









2017/08/15

10年前に作った詩

八月を想フ ‐緑色の服を着たおばあさんへ


もういろんなことを忘れてしまったおばあさん。

一筋の記憶を受けたのか 突然、つつと語りだした。

   私は竹やりの訓練をさせられたの
   東京の品川で
   アメリカ人の捕虜を本当に連れてきてね、竹やりでつつく練習をさせられた
 
   敵だと言ったって、同じ人間じゃないの
   そんな酷いこと・・・
   とっても私はできなくてね、
   つつく真似をしたら、捕虜がこっちを「いいのか?」というように
   顔をみてうなずいてね。
   私がうなずいて、「いいから早くあっちへいけ」って顔で示したら
   痛がる真似をしてあっちに行ったんだよ

   でも本当につついている女の子もいたよ
   どうしてあんなことできたんだろうね
   戦争なんて酷いもんだよ

   学徒動員っていうものあってね
   流れ作業
   私はぐずだから、私のところで仕事が溜まるんだ
   そしたら憲兵さんが怒って叩くんだよ
   ピシーッピシーッってね、鞭で
 
   でも、今から考えたらどうしてあんなことしなきゃならなかったんだろうか
   本当に戦争に勝てると思ってたのかしら
   ねぇ?

   あのころは朝も昼も夜も関係なく
   B29が飛んできたよ
 
   となりのお兄さんが兵隊さんになる前に
   「うちの上で飛行機の翼をこう振るから見てなよ」と言ってね
   見ていたら本当にやったんだ
   こう、翼をね

   その人は、それからもう帰ってこなかった
 
   戦争って本当にしなくちゃいけなかったんだろうかね
   
   ね

 

おばあさん。
おばあさん。

これは全てを忘れても、残された記憶なのですね

60年たって、ほとんどの出来事を忘れてしまって
生活の動作すら空に溶けてしまった

なのに
あなたはその問いを捨てられない
その問いから逃れることはできなかった


あなたが23歳の娘だったときに、先の大戦は終わりました

60余年の年月がながれ
24歳の私は
ある場所で偶然に、白髪のあなたと出会いました


終始モグモグしていた口から、突如はっきりと紡がれた言葉たち


それは、あなたの人生で最も過酷な、
そして思い出深い体験だったのですね

そのことを語ったことも、覚えていたこともあなたは知らない

でも、私はその記憶を忘れないように努めます

あなたの問いから未来を選びだせるように

どうかいつまでもお元気で居てくださいますように
 そうお祈りしています
 














(2007 0510)
2017/08/15

2016年8月15日 敗戦の日に

昨年の今日に書いた文章です。



今日、8月15日。

日本がしかけた戦争に負けをやっと認めて発表した日。
誰が、何のためにあんなにも殺されなければならなかったのか。
人を殺したのか。殺させたのか。

フィリピンで日本兵の銃剣の上に放り投げられ、突き殺された赤ちゃんを見たというかつての少女に私は出逢った。かつての少女たちは、自分があまりにも幼いとき、日本兵の性の奴隷にされたと私に話して下さった。

中国の南京にて、家族のほとんどを惨殺され生き残ったという少女が おばあさんになって、日本に話しに来て下さったことがあった。彼女は、一緒に暮らしていた赤ちゃんが、日本兵により壁におもいきりなげつけられ殺されるのを見たと話しておられた。

日本の兵隊に召集され、戦争が終わったら、こんどはシベリアに抑留されたという韓国のおじいさんのお話を、12年ほど前に確か大阪で聞いた。

日 本軍に性奴 隷にされた台湾のおばあさんが被害を証言をされているとき、様子を詳細に思い出し話しながら、ふと上を向いた目線を忘れられない。その目線の先には天井から部屋の中を覗き見ていたという、何人もの兵士がいたんだろう。そのおばあさんも亡くなった。

5歳の時、ヒロシマで被爆されたオモニ(おかあさん)。
その人の息子である金さんは被爆二世だった。ほんとうに細い人だった。出逢い分かれた数日後亡くなった。まだ30代前半だった。

植民地支配や強制労働のなかで、身体を弱め、ハンセン氏病にかかり、殺されたり隔離されたりした人たち。
どうして、ずっと閉じ込められなきゃならなかったのか。(戦後の話になるが病気の妻の死に目に会わせてもらえなかった人もいる。)

東京の品川でアメリカ軍の捕虜を使った竹やり訓練を、23歳の時に実際にさせられたと話す日本のおばあさんと出逢えたのは、私がまだ20代半ばのとき。すこし認知症の彼女の口からでた「戦争なんて、ほんとうにしなけりゃならなかったのかね。ね。」という呟きが忘れられない。

先日、85歳の女性と話していたときに、この竹やりの訓練がいかに一人ひとりの心に傷を持たせたかを始めて理解できたように感じた。好きな歌も、思ったことも言えない状況がほんとうに嫌だったと彼女は話して下さった。

私の祖母は90歳を超えて認知症がはじまっていたとき、私の質問(戦争が始まった時どうだった?)に明確に答えた。
「みんな気付かないのよ!気付かないようにやるんだもの戦争なんて!!」。
関東大震災と東京大空襲を生き残った彼女も亡くなった。

祖父は、中 国の山東省に派兵されていた。彼が見たこと、したことは分からないけれど、少なくても新兵の時代にきっと人を殺させられただろう。そうしないと自分が殺される。それが日 本 軍だから。
きっと戦争がほんとうに嫌だったんだろう。生前の彼を知らない私にも伝わってきたことがいくつかある。

祖父の兄も中国で戦死している。弁護士になり、多くのひとを助けるはずだった人だ。


沖縄での地上戦。信じられないような人数が死んだ。
生き残った人も「死んだほうが良かった」と思うほどの苦しみを味わったときく。
疎開するための船もたくさん沈没した。

東京大空襲。
日本各地の空襲。機銃掃射。
ヒロシマ、ナガサキでの原爆投下。

泥沼のフィリピン戦に、どうして人を更に送り続けたのか。みんな周辺海域で沈められていった。

せめて、あと半年はやく戦争を終えていたら? もっとはやく負けを認めていたら?そうすれば、死なずにすんだ人が大勢いるんじゃないか
そう思わずにはいられない。




慰霊は、
「死んでくれて、あなた方の犠牲があって、いまの平和があります。ありがとう」ではいけない。
決して。

みんな死ななくてよかったんだ。殺されなくてよかったし、殺すはずじゃなかった。
みんな普通に生きて、暮らして、自然に任せて死んでいけたらどんなによかっただろう。
死んでいった人たちの無念さに、
生き残った人たちの心の中に残されている傷や、苦しさ、悲しさ、そして憤りに対して、だれか責任をとったか。
誰もとっていない。
いや、そもそも、とれるもんじゃないけれど。
でも、とろうとしようよ。せめて。

私は国家の代表でも、民族の代表でもないけれど、
一人の人間として考える責任があると思う。
自国の加害の責任を感じながら
受けた被害も考えて、少しずつでも歴史から学び、
戦争というもの本質を見極めたいと思う。

戦争は、
人間の、そして、すべてのいのちの連鎖を破壊する力を持ってしまった。

戦争はしてはいけない。
勝とうが負けようが関係ない。
戦争はいのちの敵だから。
戦争をさせないために、必要なことは
戦争をしたくてしかたのない国家をつなぐ首輪を手放さないこと。

憲法を変えてはならないよ。

古今東西、今昔、世界中の戦争の犠牲になったひとたちが切望した「殺したり殺されたりしない権利」。
それは、やっと辿り着いた人類の権利、いのちの権利なんだから。

2017/08/10

2012年8月6日の朝に ‐脱原発、脱核を求めて

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマとアウシュビィッツとパレスチナ


(1)
平和への誓い(2009年8月6日 小学生代表二人)
 人は、たくさんの困難を乗り越えてこの世の中に生れてきます。お母さんが赤ちゃんを産もうとがんばり、赤ちゃんも生まれようとがんばる。新しい命が生まれ、未来につながっていきます。それは「命の奇跡」です。

 しかし、命は一度 失われると戻ってきません。戦争は、原子爆弾は尊い命を一瞬のうちに奪い、命のつながりをたち切ってしまうのです。昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。それは人類が初めて戦争による被爆者をつくりだした時間であり、世界が核兵器について真剣に考え始めなければならなくなった時です。

あの日、原子爆弾は広島の街を一瞬にして飲み込みました。建物は破壊され、多くの人々が下敷きになりました。
人々の皮膚はボロ布のように垂れ下がり、「助けて」「水をください」と何度も言いながら亡くなっていったのです。
それは、人間が人間らしい最期を迎えられなかった残酷な光景でした。多くの夢や希望を一瞬にして吹き飛ばされた人たちの悲しい「闇」の世界でした。

世界の国々では 今も、紛争や戦争によりたくさんの命が奪われています。僕たちのような子どもが一番の犠牲となり、体に傷を負うだけでなく、家族を失い心に大きな傷を負っています。
日本でもまだ多くの人たちが原爆の被害で苦しんでいます。入退院を繰り返す被爆二世の人もいます。
だから、まだ戦争は終わったとは言えません。

これから先、世界が平和になるために 私たちができることはなんでしょうか。
それは、原爆や戦争、世界の国々や歴史について学ぶこと、
けんかやいじめを見過ごさないこと、
大好きな絵や音楽やいろいろな国の言葉で 世界の人たちに思いを伝えること。

今の私たちにできることは小さな一歩かもしれません。けれど、私たちは決してあきらめません。
話し合いで争いを解決する本当の勇気を持つために、核兵器を放棄する本当の強さを持つために、
原爆や戦争という「闇」から目をそむけることなく、しっかりと真実をみつめます。
そして、世界の人々に、平和への思いを訴え続けることを誓います。


私は、平和資料館で平和集会の子ども代表だった小学6年生の2人が読んだ原稿に目を奪われ、心を鷲掴みにされました。それを全てメモしてきたのが上の文章です。


深い感動に包まれ、思わず全文を写していたら時間切れになり、まだ半分しか回れていなかったのですが走って出口に向かいました。原爆投下直後の様子が再現された場所を走り抜けながら、自分が家族を捜し求めてヒロシマの街だった場所を走っているような感覚にとらわれました。

表にでて、陽の光が本当にまぶしかった。かつては材木町という町があったその場所に住んでいた人は全員が亡くなったということを知りました。説明板にある写真に写されたすべての人が、あの日、ここで原子爆弾に殺された。


年表をみて驚いたのは、原爆ドームの保存工事が終了した完成式典が、投下翌年の8月6日だったことです。それが広島平和記念集会の第一回でした。

2010年春、イラク戦争開始から7周年の3月20日に私は広島の平和公園と平和資料館に初めて行きました。民族を越えた戦争への想い、世界平和への希求が実体化した場所であることに気付き はっとしたのです。

広島をヒロシマとして後世に残したのは、ヒロシマを生き残った人たち。
自分の人生、故郷のすべて、家族や友人のすべてを一瞬で奪われた怒り、苦しみ、殺された人たちの無念さ
 ― もう二度とこんなことを起こしてはいけない。全ての戦争、すべての核は 人類には必要ない!という声なき叫び。

植えられていた椿が美しい花を咲かせていました。



(2)
日本では2011年3月11日に大型地震が起こり、その数日後 福島の原発が次々に爆発するという終末の映像を私たちは目撃しました。
美しい故郷を奪われた方たち…。
安心できる世界を改めて奪われた私たち。
移住を余儀なくされた方、
その場に留まらざるを得ない方、
そこに住み続けると決意された方たちがいます。

日本社会は放射能を意識し暮らさざるを得なくなりました。世界からは日本は現在進行形での被曝国とみなされるようになりました。

この社会のあり方について、問い直され、考える人と考えない人の境目がより一層 明白になっていきました。
首相官邸前で、福島の女性たちがダイイン(死んだふりをするパフォーマンス)をしました。4万5千人が官邸前で、デモでは17万人もの人が原発をやめろと訴えました。けれど、それを伝えるメディアはほとんどない。新聞もほとんど書きません。原子力発電をどうしても続けたい者たちが国を動かして、メディアも牛耳っているからでしょう。日本は財政難だとか、赤字があるとか、消費税を上げるとか、いろいろ言われているけれど、軍事費に匹敵する巨額な資金を原発や核燃料サイクルに投入し続けてきました。

アメリカは原爆を二回も落とした国に核兵器プラントである原発を売りつけました。許されないことですが、それを買う日本国家の罪はそれ以上だと思います。アメリカに売りつけられた原発を、現在は日本企業(東芝、日立、三菱など)が受注しています。それを海外に売りつけて儲けるため、そしてプルトニウムを作って核兵器を持つ目的があるがために原発は止められないのです。日本の財閥・軍閥が戦前・戦中・「戦後」である今現在も、この日本社会を支配してきたということの意味を考えなければならないと思います。先の大戦の責任者たちは、戦争と核兵器によって、今は原発事故と放射能被害によって国民を騙し、殺し、儲けて権力を維持しているということに激しい怒りを感じます。

原発は、核兵器をつくる工場です。そこで電気も作り、それを市民の生活に強制的に供給することで文句を言わせないという構造的な支配システムです。

核兵器には、原子力爆弾にも水素原子爆弾にもプルトニウムが使われますが、これは数年ごとに入れ替えをしなければ 核兵器として維持できません。そのため、自国でプルトニウムを生産できるようにならないと核兵器はほんとうには保持できない。しかしプルトニウムを作るための高速増殖炉もんじゅは日本に既に在ります。
発言権を強くするために核保有国の仲間入りをしたい外務省、
私欲を貪る企業、政治家たち。
そして、それを下支えする己の欲求のみを追いかけ、現実よりもロマンを求める技術者たちのメンタリティ。

原発は温暖化の防止にはなりません。二酸化炭素をつくらないのは発電時だけのことで、そこに至るまでのみちのりは、火力発電所をつくるよりも何倍も電気が必要になり、したがって二酸化炭素の排出も多くなります。燃料のウランを掘り出して精製して燃料にする過程にも、膨大な電気が使われて、そこで二酸化炭素が生まれています。

自然界にも放射能はありますが、ウランは土中に埋まっているあいだは放射線をだしません。だから、そこは先住民族の聖地である場所だったりしたのです。(例えばオーストラリアのジャビルカ鉱山はアボリジニーの聖地で「悪魔の山」として恐れられてきました。オーストラリアの電力会社と丸紅の合弁会社がそれを掘り起こし、そのウランを輸入しとるのが関西電力だったりするわけです。)

国と民を売って、原発事故後もなにも反省をせず、ひたすら核の「平和利用」として続けていこうとする権力者たちであるこの国家。許してはならないと思います。

あるドキュメント映像の中では、路上で寝たきりになった方に、原発労働に行ったことがあるか訊ねている場面がありました。消えいるようなか細い声で、原発のある地域の名前を言ったあの男性は、もうこの世におられないでしょう。

路上で生活している野宿生活者、また日雇い労働者の方たちが、全国に3万人は確実にいると言われています。(神社仏閣におられる方もカウントしたら、もっとおられるでしょうか。)大阪だけで1年のあいだに200人から800人の方が道の上で亡くなっていると言われています。この50年、どれだけの方が路上や路上に近い場所で亡くなったのでしょう。その方たちのうちのどれくらいが原発の下請け労働に従事していたことがあったのでしょうか。原発労働者、また周辺に住む人の身体に影響があるのかどうか、国はまともに調査したことは一度も無いのです。何百、何千、もしかしたら累計で万規模の被曝(ひばく)労働者を生んできたと考えても不自然ではありません。

先述した映像のあとに、「事故があるのは単純作業労働者のミスですね」と言っていた 電力会社の重役の笑みを10年たった今も私は忘れることができません。「じゃあ、あなたが炉に入って作業してください。事故が起きないように!」と私は言いたい。
人間を、他者を使い捨てる方法でしか実現できない技術なんて 欠陥です。

何のために、それが存在するのか。そこに立ち返って考えることが必要だと思います。原子力発電所の存在理由がほんとうに「人々の暮らしに必要な電気を作るため」であるならば、人体や環境への有毒性は許容されないはずです。「他人ならかまわない」という思考は、自身をも阻害していくのではないでしょうか。

2001年、美浜原発の細管破裂事故の現物を 大学の見学授業でぶ厚いガラスごしに見たとき、「原発のごみは、未だに処理する方法がないのではないですか」と訊ねる19歳の私に、関西電力の重役の方は「それを何とかするのが技術者の使命なのですよ・・・!」と潤んだ目であさってを見つめて力強く呟くように答えました。その姿を目の当たりにしたときのうすら寒さと恐さを忘れることはできません。


浜岡原発にも行ったことがありました。
原子力PR塔の最上階の展望台から眺めた日本海の夕暮れ。
左のガラスには海岸線にある5機の原発、右のガラスには街を対比したあの光景…。
「チェルノブイリの人たちもこの近さに驚いていたそうです」という解説を耳にしながら、街の家々と海岸線を染めあげる美しい夕日をみていました。雲がピンク色に染まってとても美しかった。

私の生活のための電気は、この地域の人の暮らしを犠牲にしている。
そして、「もし事故が起きたらこの地域に住む人だけではなく、自分も含めた世界のひとたちを巻きこむ危険を余りにも強く持っている」と思ったのが20歳の時でした。

そして、福島で原発事故は起き、福島はフクシマとなった……。


(3)
第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺・ホロコースト。
(※ナチスはユダヤ人のみならず、ロマ民族(ジプシー)、性的少数者、精神病者たちも大量に虐殺しました。ホロコーストを経験したユダヤ人たちは、第二次世界大戦が終わった後、つまりアウシュヴィッツ強制収容所から解放されたあとも、難民としての悲惨なキャンプ暮らしを強いられました。そこでも大勢の方が亡くなられた。そうしたホロコーストを経験した人たちが、悲願としての [祖国・イスラエル]を「建国」しました。イスラエル建国はパレスチナの人たちにとってはナクバ、(厄災)となり、パレスチナの人々は難民となりました。パレスチナに暮らす人たちへ向けられる暴力は、「民族浄化」を極めつつあります。)

「もう誰にもこんな思いはさせられたくない!」と言いながら、イスラエルはパレスチナという存在そのものをこの世から消し去ろうとしています。

ホロコーストを被害者から加害者になって再現するイスラエル・ユダヤ社会。その闇を想うときに、はっとしました。
日本はアジア太平洋地域で、死者だけでも2000万人という侵略・占領・植民地化 という戦争をやってきた。
そして、正式に謝らないままとはいえ憲法9条を表明して、建前は戦争を放棄したが、きちんとした反省をやってこなかった。
その上で、イラクへ軍隊を派兵してしまった。そして国民投票法案が通ってしまっていて憲法が改悪される状態に限りなく近い状態であること。、
世界で初めての(戦時下における)、唯一の核兵器使用被害を受けたヒロシマ・ナガサキのある日本が 原発を、ひいては核を捨てないということはどういう意味を持つのか…。そういうことを考えて生きていたら、2011年3月に福島で原発が爆発するという最悪の事態になりました。広島・長崎で被爆された二重被爆の方もいらっしゃるということです。そんなことが起こりえていいわけがないのに。

世界が原発と核兵器を放棄できるか否かは 日本にかかっているといっても過言ではないと思います。
強くそう思います。
世界中の国が核武装したとしても、日本だけは核兵器を、原発を、決して持ってはいけない。
大飯原発は、絶対に再稼働させてはならない。なのに今動いている現実があります。

放射能に汚染されてしまった世界で、何一つもとにはもどらない。
しかしそれを認めず、過ちを繰り返そうとする日本政府。

これ以上、地球を汚染させるなんて。これ以上?

イスラエル軍のブルドーザーからパレスチナ人の家を守ろうとして、轢死(れきし)させられた
レイチェル・コリーさん(享年23歳)の言葉を借りるなら、

「こんなことはもう終わりにしなければ。私たちみんなが、すべてを投げ捨てて、これを終わりにするために自分たちの人生を捧げるというのは、いい考えだと思います。それは、もはや過激な考えではないと思います。」


国家権力との長いたたかいですから燃え尽きてしまわないように。
けれど精いっぱいやらないとまた間に合わないかもしれない。



いま、何ができるでしょうか。

ヒロシマ・ナガサキ
そしてフクシマを繰り返さないため、

わたしたちは人間として生きるために、
全力で原発を、戦争を止めていかなければならないと思うのです。






2017/08/06

坂口恭平さん「どしゃぶりの雨がまっさかさま」

坂口恭平さんがボブ・ディランのカバーしていて、歌声もギターもとっても良い。
訳詩が素晴らしい!

ひどい法律が決まったときとか、身の周りでやるせないことが起こる辛い時、繰り返し聴いている。



【どしゃぶりの雨がまっさかさま
歌:坂口恭平さん Bob Dylan A Hard Rain's a-Gonna Fall cover】

https://soundcloud.com/kyohei-sakaguchi-1/bob-dylan-a-hard-rains-a-gonna-fall-cover


※坂口さんの訳したA Hard Rain's A-Gonna Fallの 歌詞は、ウェブ上になさそうだったため、聞きながら起こしました。
そのため、間違いや勘違いの表記があるかもしれません。申し訳ありませんが、あしからずご了承くださいませ。




どこほっつきまわってた目の青い坊や
どこほっつきまわってた愛しの子

十二の霞む山裾で躓いた
六つのハイウェイ歩きくたびれた
七つ森に迷い込んだ
目の前には沈黙の海さ
三千里歩き墓場の門よ
いまも強く激しく続くどしゃ降りの雨がまっさかさまに



目に映るものは何 目の青い坊や
目に映るものは何 愛しの子

赤ん坊を囲む狼の群が
無人のハイウェイ宝石みたいだ
血がたれる森の樹木が
男たちの手には血まみれのハンマー
びしょ濡れの梯子はまっしろで
呂律回らぬ語り部たちが
銃刀権もって暴れる子どもら
いまも強く激しく続く どしゃぶりの雨がまっさかさまに


どこほっつきまわってた目の青い坊や
目に映るものは何 愛しの子

十二の霞む山裾で躓いた
六つのハイウェイ歩きくたびれた
七つ森に迷い込んだ
目の前には沈黙の海さ
三千里歩き墓場の門よ
赤ん坊を囲む狼の群が
無人のハイウェイ宝石みたいだ
血がたれる森の樹木が

男たちの手には血まみれのハンマー
びしょ濡れの梯子はまっしろで
呂律回らぬ語り部たちが
銃刀権もって暴れる子どもら
いまも強く激しく続く どしゃぶりの雨がまっさかさまに

いまも強く激しく続く どしゃぶりの雨がまっさかさまに





A Hard Rain's A-Gonna Fall : Bob Dylan

  Oh, where have you been, my blue-eyed son?
  Oh, where have you been, my darling young one?
  I've stumbled on the side of twelve misty mountains,
  I've walked and I've crawled on six crooked highways,
  I've stepped in the middle of seven sad forests,
  I've been out in front of a dozen dead oceans,
  I've been ten thousand miles in the mouth of a graveyard,
  And it's a hard, and it's a hard, it's a hard, and it's a hard,
  And it's a hard rain's a-gonna fall.

  Oh, what did you see, my blue-eyed son?
  Oh, what did you see, my darling young one?
  I saw a newborn baby with wild wolves all around it
  I saw a highway of diamonds with nobody on it,
  I saw a black branch with blood that kept drippin',
  I saw a room full of men with their hammers a-bleedin',
  I saw a white ladder all covered with water,
  I saw ten thousand talkers whose tongues were all broken,
  I saw guns and sharp swords in the hands of young children,
  And it's a hard, and it's a hard, it's a hard, it's a hard,
  And it's a hard rain's a-gonna fall.

  And what did you hear, my blue-eyed son?
  And what did you hear, my darling young one?
  I heard the sound of a thunder, it roared out a warnin',
  Heard the roar of a wave that could drown the whole world,
  Heard one hundred drummers whose hands were a-blazin',
  Heard ten thousand whisperin' and nobody listenin',
  Heard one person starve, I heard many people laughin',
  Heard the song of a poet who died in the gutter,
  Heard the sound of a clown who cried in the alley,
  And it's a hard, and it's a hard, it's a hard, it's a hard,
  And it's a hard rain's a-gonna fall.

  Oh, who did you meet, my blue-eyed son?
  Who did you meet, my darling young one?
  I met a young child beside a dead pony,
  I met a white man who walked a black dog,
  I met a young woman whose body was burning,
  I met a young girl, she gave me a rainbow,
  I met one man who was wounded in love,
  I met another man who was wounded with hatred,
  And it's a hard, it's a hard, it's a hard, it's a hard,
  It's a hard rain's a-gonna fall.

  Oh, what'll you do now, my blue-eyed son?
  Oh, what'll you do now, my darling young one?
  I'm a-goin' back out 'fore the rain starts a-fallin',
  I'll walk to the depths of the deepest black forest,
  Where the people are many and their hands are all empty,
  Where the pellets of poison are flooding their waters,
  Where the home in the valley meets the damp dirty prison,
  Where the executioner's face is always well hidden,
  Where hunger is ugly, where souls are forgotten,
  Where black is the color, where none is the number,
  And I'll tell it and think it and speak it and breathe it,
  And reflect it from the mountain so all souls can see it,
  Then I'll stand on the ocean until I start sinkin',
  But I'll know my song well before I start singin',
  And it's a hard, it's a hard, it's a hard, it's a hard,
  It's a hard rain's a-gonna fall.





サウンドクラウドのシステムは、もしかしたらこの夏で終わるかもしれないらしいけど、どうか終わらないで欲しい・・・。
他の曲もとってもいいので是非。
https://soundcloud.com/kyohei-sakaguchi-1


坂口恭平さんは文筆も、いのっちの電話の活動もすごい。
絵も。
建築家でモバイルハウスも作るし、今は街に森も作ろうとしてる… うーん説明困難ですね。

とにかく、人が死なないように、いのちがお金に支配されないようにするために、自分の力をあらん限り発揮して、発信している方だと感じる。
こちらも是非、ご一読を。
「ときどき死にたくなるあなたへ…坂口恭平の新政府総理談話(1)熊本大地震から1年が過ぎて」http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51458

会ったこともないけど、日々 支えられている。有難い。
私も、地味にがんばっていこうと思います。