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2016/06/27

平和を構築する

平和とはとても言えないこの社会/世界で
それでも感じられる しあわせ

そのすべての前提となっている「平和」の
かけがえのなさを感じ、共有していくことは大切なことだと思います。

今年の沖縄慰霊の日(毎年6月23日)を経て、改めて感じたのは、
人類の苦しみや悲惨さを 受けとめようと努めることは、真の幸福とは何かを模索することなんじゃないかということでした。
闇から目を背けていては、光の明るさやあたたかさの かけがえのなさが分かりません。目を背けるままにしていたら、気付かないうちに闇に呑み込まれてしまいます。

戦争は平和なときにある当たり前の、何もかもを奪います。
例え 「勝つ」側になり命が無事としても、人間の心を壊されてしまいます。
人々は、
愛することや育むことでなく、殺すこと・排除することを求めるようになり、
自分が助かるために、もしくは自分の支配力を拡大するために、誰かを標的にし攻撃していきます。
そうやって、簡単に手に入る、安心と結束の喜びを得ようとしてしまうようになります。(いじめと戦争、そして差別は同じ構造のものであるのだと強く感じます。)

私はそういう世界は嫌です。
起きている戦争、これから起きる戦争をとめたいと心から願う一人です。


戦争をとめるために、なくすために、必要なことは何でしょうか。

何かの社会的活動をすること、例えばデモにいき気持ちを表現していくこと、人と出会うことも大切なことだと思います。

けれど、おそらく最も重要なことは人と人の間にある信頼の回復がなされていくことではないかと思います。
信頼こそが人間の愛を育み、愛と愛とを結び合わせ、
愛こそが、いのちをコマにさせない根拠として最も力を持つものだと強く思います。





もうこれ以上戦争を繰り返さないために、戦争をしてきた過去に目を向けることはどうしても必要なことです。
けれど、苦しみに目を向けることは、口で言うほど簡単なことではありません。
関係性の乏しい孤独な世界を生きている人に
突然に向き合いを求め迫っても、それは無理なのかもしれません。
日本の加害の歴史や現在を見ることは、一人きりでするには、辛すぎることなのではないかと思います。

分断に分断を重ねられてきた結果、他者を貶めることでしか、人とつながる方法を持たない孤独な人たちが社会に溢れています。だからこそ、ここまで右傾化し、歴史修正主義者が大手を振っているのだと思います。

この歪んだ社会で、正義や道理を主張するのはとても大切なことです。
同時に、この不正義がどこから生じているのかを考え、
巨大な不正義を形成している一部として生きているひとりひとりのことを、切り捨てないで考え、
自分自身も不正義の一部であるという自覚を持つことが大切なことと思います。




人は、尊重されて、初めて他の人をより大切にできるようになります。
愛されて、愛せるようになる。

こんなご時勢で、お互いに余裕のない暮らしだけれど、
近所の人に挨拶するとか、労働して下さっている人にお礼を言うとか、周りの人と思ったことを話し合う時間をつくるとか、
そういう小さなことの積み重ねがあって初めて、 人間を尊重し合える世界を求めていると言える のかもしれません。

どんな状況の人とも、隣り合い生きてけるようになるための想像力。
誰しもが持っているはずの、その想像力を花開かせるため、必要な行動・表現とはどのようなものか。
お互いに助け合える人間関係は、どうやって構築され、拡がっていくのか。

戦争の対極の世界、お金や権力ではなく、いのちを大切にする世界を実現するために、そうしたことを念頭において、実践していけたらと願います。

2016/06/12

ファンファーレ・チョカリーア

久しぶりにファンファーレチョカリーアの音を聴いたら、
2008年10月18日びわこホールに彼らが来てくれたコンサートに幸運にも行けたことを思い出しました。

やー、あの時は心底たのしかったんです。
うっかり忘れていたけど思い出しました。
演奏時間が終わっても舞台から客席へ、そしてホールで(チップを集めながら)パフォーマンスする彼ら。
その隣りで音にあわせて踊ったんでした!

自分の中にたくさん宝物があるもので。

いい思い出にもほろ苦いものがあり、
悲しい思い出にもほの明るいものがあり、
忘れていく自分も悪くないけど
こうしてポツリポツリと思い出せるところにきたんだなと思ったり。

久しぶりに聴くチョカリーアの重低音。おすすめです。



2016/06/05

「私がいじめられていた時のことと、今つらい人たちへの手紙」について。

こんにちは。
ここを覗いて、私の稚拙な文章に目を通して下さるあなた。ありがとうございます。感謝します。

10年前にかいた「私がいじめられていた時のことと、今つらい人への手紙」という文章を
このブログにずっと掲載していました。けれど、この度、 降ろすことにしました。

当時、教育基本法が改悪される直前で、いじめの自殺報道があまりにも意図的にされているように私は感じていました。
悔しくて悶々としているところに、
灰谷健次郎さんの『太陽の子(てぃだのふぁ)』を読んで、心底感動し
自分にもやれること、書けるものを書かねば とパソコンに向かいほぼ一気に書きあげた長文でした。

思えば、いろんな人に読んでもらえたなぁ・・・という気持ちがあります。
みなさんに私の体験を受けとめて頂いたことが、魂の糧になってきたことは間違いありません。
「誰か」のために書いた文章が、「自分」のためのものともなる。
それは、10年経っても変わらない・・・ いえ、もしかしたら重ねた時間のぶんだけ意味を持ちえたのではないかと思います。

文章を書いたその後も
職場や個人的な人間関係の中で、同じような問題が発生し、とても苦しみましたが
それまで「死なないで」と呼びかけてきた以上、自分が死ぬわけにもいかなくて、
なんとかいのちを投げ出さずにここまで来られました。
躓きも、不幸に見えることも、ここに至るまでの道程になったのは
生きてこられたからです。
私を見守り、支えて下さった神様に、そして周りに居続けてくれた愛する人たちに感謝する他ありません。
「いじめ」られて奪われてきた、
もしくは自分の身を守るために自ら捨ててきたものを、
ひとつひとつ拾い上げ、手渡され、学びなおし、回復してきている実感があります。

そんな日々の中で、
自分の傷を世界に広く曝けることを、ちょっとお休みしたくなりました。
ひとりひとりに手渡していけるようにしたいと思いました。


それぞれ、何かしらの傷とか重荷を背負っていると思います。
PTSD(心的外傷)とかトラウマと、口でいうのは簡単だけど、
日々の日常の中に織り交ぜられる後遺症は、根深く、本人にしかわかりません。

それが誰のどっちが大変か そういうのを比べるんじゃなくて、
たった一度の人生のなか、避けられない山がそれぞれにあるってことを尊重して考えることが大切と思います。
みんな生涯をかけて、自分の中にある大きな山に向かいあって歩んでいく。

お互いの山に登りあうことはできなくても、
自分の山に向き合うことで誰かを励ませることがあるのかもしれません。

私の辛かった体験を読んでくださった方に感謝しつつ、
「今つらい人たちへの手紙」を、このブログを通して書き続けていけたらと願います。

良かったら、これからもよろしくお付き合い下さいませ。

感謝をこめて

                                     2016年6月5日