2009/02/02

詩:「水谷先生への手紙」

 先生、
 水谷劦一せんせい。

 先生がもうこの世界にいらっしゃらないなんて。

 去年の秋、そのお知らせを知った日、わたしは事実を受けとめることが出来ませんでした。
 ソファにもたれられ、眠るように穏やかな最後だったと聞きました。
 それでも、信じることができませんでした。 そしてそのまま年が明けてしまいました。


 先週の土曜日に、「ウトロ問題を広げるつどい」に参加しました。
 先生を悼むことは、先生が生前ご尽力されてきたウトロ問題を広げることだと開かれた会でした。

 桜の木の下で微笑まれる先生の写真。
 たくさんの人たちが先生の思い出を弔辞として語られました。

 ほんとうに、ほんとうに、もうどこへ行っても先生にお会いできないのですね。
 不意に実感が湧いてきて、涙がとまらなくなりました。

 すっかり弱気になって出不精になった私が、
 気を取り直して、出る集いにはいつでも先生はおられました。
 いつものキャスケットの帽子をかぶられて、ウトロ問題を広げる会のチラシを持っておられました。

 「仕事はどうしているの?」「身体はもういいの?」と、会うたびに心配して下さいましたね。
 お姿を見ると嬉しくなって、温かい言葉をかけてもらいに御挨拶に行ったものです。

 あるときは、わざわざお誘いの電話をかけてきてくださいました。
 その時、ご一緒できなかったことが悔やまれて仕方ないです。
 
 
 京都、自衛隊大久保駐屯地の横にあるウトロ地区。
 「宇土口(うとくち)」が間違えて読まれ、この地名になったその場所。
 
 ―日本の侵略戦争の渦中で、国も文化も言葉も名前も奪われた朝鮮民族の人々が、
  海を渡り、人の暮らしがあると聞かされて行き着いたその場所。

  飛行機を作る工場の飯場は、劣悪極まりない条件ながらも働かざるを得ず、
  戦争が終わったら「さっさと出て行け」と言われ、
  苦難という言葉ではあまりにも簡単すぎる人生を歩まされた在日一世のアボジ、オモニの暮らす町。
 
 戦争が過去と言われて久しい昨今、
 軍国主義から民主主義に鞍替えしたかに見える日本の植民地支配に尚も脅かされ、
 社会から無視され、法からも見捨てられ、日本の侵略を聖戦だと言い張る人々に攻撃され続けてきた下水道すら通されないままの小さな集落。


 先生は、「ウトロ問題は日本問題だ」
 「ウトロは日本の植民地支配と、不動産登記の犠牲になった町」と言いつづけ、
 この問題を一人でも多くの人に伝えるために
 地道な活動を、いつもいつもいつも丁寧に誠実に確実にやり続けてこられました。

 雨の日にもバイクで届けてくださった会報。
 茶封筒にボールペンで書かれたわたしの住所と名前。 
   
 展望があろうが無かろうが、傷つけられ踏みにじられた境涯の人々に
 最後まで心を寄り添わせ続け、
 人とウトロを繋ぎ、出会わされ続けられた…
 温かい人柄に、明るい瞳の輝きを持って、人としての道を最後まで生き抜かれた水谷先生。

 その地道さ、実直さを、分かったふりをして素通りしていたのが私です。
 
 いつもいつも貰いっ放しで時間は過ぎてしまい、
 頂いたものの大きさに気付いた時、これからが問われるというのに、
 甘えたで怠け者の自分の不実さを、嫌と言うほど知っているから
 「先生の精神を継いで生きていきます」と言い切る強さがありません。 
 
 その上、
 自分が若いということは、生きていく限り、偉大な愛する人たちを見送ることでもあるんだと
 改めて気が付いて呆然としているのです。
 さみしくて、悲しくて、心細くて堪りません。 
 
 それでも、
 そんな私に優しくしてくださった先生に、出会い続けられる自分になるしかないのです。
 先生のような人に、すこしでも近づきたいと焦がれて生きていきましょう。
 ご冥福をお祈りしながら、またお目にかかれる日を楽しみにしています。


 せんせい、ありがとうございます。 ありがとうございました。
 


 

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